近年、急速に発展した科学技術によって、現代の日本に生きる私たちは仏教を開いたお釈迦さまの時代のインドの人々だけでなく、少し前の時代の日本人と比べても格段に快適な生活を送ることが可能になりました。
しかしだからといって苦しみがなくなったわけではありません。私たちには毎日の暮らしで悩みや不安、不満がたくさんあります。
それだけではなく、私たちの苦悩の根本にある「生死勤苦の本」、すなわち物質や人間によって支えられたり、慰められたりして解決する課題のさらに奥にある根本課題は曖昧になっています。
最近は「癒す」とか「癒し」という言葉を耳にします。仏教にも疲れた心を癒すはたらきがないわけではありませんが、目の前の問題の本質を確かめることなく「表面だけを癒す」とか「自分だけ納得する」ということでは仏教的なめざめや救いとはなりません。
苦悩の根本にある問題とは日常生活の課題ではなく、その生活を支える基盤が揺らぐことです。現実の対処方法だけでは本当の解決にならないのです。
例えば、健康な人もそうではない人も等しくこの世を去らねばなりません。私たちが好んで情報を集めている健康法や健康食品では解決しない事柄です。
大きな災害や思わぬ事故・病気による不慮の死、犯罪や戦争による理不尽な死、長寿ゆえの病、技術の進歩によってもたらされる疎外感、富を得ても満足できない……など、本当は誰もが人生の根本的な苦しみからは離れることはできません。
もし事故や病気を避けて、円満な人間関係を築いたまま健康に老いていくことができても、最後は必ず死をもって人生を終えます。生まれて死ななかった人間はこれまで誰もいません。人間の死亡率は100%です。
死を迎えるまでの生活が豊かで快適で幸福で、快楽の多いものであればあるほど、それを失うことは大きな苦しみをもたらします。愛着が強ければ強いほど、失う苦しみも大きくなるのです。
仮に富を蓄え、長寿を保ったとしても、本当の幸せとはいえません。さらに多くの富を蓄え、長寿を保とうとし、それでも満足できないのが人間です。
仏教の目的はこの苦悩の根本にある「生死(しょうじ)の問題」の解決にあります。私たちの生きることの問題も重要ですが、「生死の問題」は生きるということと死ぬということそのものの問いです。
生きとし生けるものは、すべて死にゆく存在です。しかも人間はこのことを知っているのです。自覚しているということは、いまここ私の問題ということです。私のいのちは次の瞬間も保証されていません。
この問題の前にはこれまで大切にしてきた名誉や地位、財産、家族・友人、すべて支えにはならないのです。私がただひとり残されるのです。この問題を癒やしや先延ばしで誤魔化すのではなく、正しく超えていく道を明らかにしたのが仏教の教えです。
しかし自らの力でこの問題を超えることは煩悩がある限り不可能です。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人も自身を「煩悩具足の凡夫」といわれています。
煩悩の世界から一歩も出ることのできない私には永遠に解決の道はありません。この救われる手がかりのない私のために阿弥陀如来が救いを成就くださったことを聞くのが浄土真宗です。
翌月の言葉