銀座出世地蔵尊

銀座にやってきました。


銀座・三越には「出世地蔵尊」というお地蔵さまがご安置されています。

【銀座出世地蔵尊縁起】
銀座三越の屋上に安置されております「銀座出世地蔵尊」は、明治のはじめ頃、三十間堀から出世した(世に出た)と言われております。

当時、地元の鳶職人が銀座4丁目3番地(現在の7番地)あたりの空き地へお祀りしたところ、道行く人々や近隣の信心篤い人たちが、花やお団子を供えて参詣するようになりました。やがてこのお地蔵様は、開運・出世・延命・商売繁盛のあらたかなご利益があるということで評判になります。その結果、お堂も粗末な小屋から立派な木造になり、毎月7日、18日、29日がご縁日と決まりました。ご縁日には様々な露店が並び、たいへんな賑わいを見せるようになりました。これが「銀座八丁露店」の始まりと言われております。

毎年4月8日のお釈迦様のご生誕日(降誕会)には、甘茶の接待などが行われ、広く参詣者に親しまれてきました。しかしその後、関東大震災や戦災などで火をくぐり、幾多の波乱曲折を経ることとなります。そしてこの度、銀座三越の新築に際して、元の「美松」の跡地からこちらの屋上へと移されました。築地本願寺による開眼法要を執り行い、新たな堂宇(お堂)に安置されたことで、銀座八丁の守り本尊として、銀座の街の人々を中心に広く一般のご参詣を受けることとなったのです。

「祈願して成就せざることなし」と伝えられる銀座出世地蔵尊の広大なるご恩恵に浴するため、一人でも多くの方にご参詣いただけることを願ってやみません。

昭和43年10月銀座出世地蔵尊奉讃会
【銀座出世地蔵尊の歴史と由来】
銀座出世地蔵には、二つのいわれがあります。

ひとつは明治の初めのことです。「三十間堀」(現在の銀座4丁目10番地付近(晴海通りと昭和通りが交差する付近)に住む石工の弟子が「自分の親の供養のためにお地蔵様を彫りたい」と願い、機会を待っていました。当時は親方の許可を得ずに勝手な作業を行うことはできなかったため、なかなか彫ることができませんでした。
しかしあるとき、親方が旅に出ることになったため、その留守の間にお地蔵様を彫り上げました。ところが、親方に見つかると叱られると思い、三十間堀の界隈に埋めてしまったのです。

親方が旅から帰ってしばらくすると、弟子の夢枕に夜な夜なお地蔵様が姿を現すようになったため、思い切ってその理由を親方に打ち明けました。話を聞いた親方は、早速お地蔵様を手厚くお祀りするよう命じました。お堂をこしらえ、花を供えてねんごろにお祀りしたというのが、ひとつ目のいわれです。

もうひとつのいわれは、石工の弟子がお地蔵様を三十間堀に埋めたところまでは同じです。その後、三十間堀の護岸工事が行われましたが、何度修復しても同じ場所が壊れてしまいます。不思議に思って丹念に川底をさらったところ、お地蔵様が出てきたというものです。「これは霊験あらたかなお地蔵様だ」ということで、芝増上寺の住職に預けて供養してもらいました。その後、この住職が浅草四方寺に招かれたため、お地蔵様は返還され、銀座四丁目の空き地に安置されたといいます。護岸工事でお地蔵様を引き上げた「田中善太郎」という鳶職人の名前まで分かっていますが、どちらのいわれが事実に即しているかは不明です。

銀座出世地蔵が祀られたのは、銀座に煉瓦街が建設された明治6年から、明治35年までの間と考えられています。明治25〜26年ごろから大正時代にかけては、毎月7日、18日、29日に縁日が開かれ、多くの露店が並ぶ賑やかな風物詩となっていました。

大正12年(1923年)9月の関東大震災で、銀座地区も焼け野原となりました。さらに、太平洋戦争中の米軍機による空襲でも、銀座はほぼ焼失してしまいます。それでも、終戦の翌年には180軒あまりの店が営業を再開し、「銀座復興祭」を行って東京の人々を元気づけました。

戦後、お地蔵様はしばらく4丁目の道端に安置されていましたが、昭和43(1968)年10月の銀座三越の全面改装に合わせて、その屋上に移されました。長い間道端に置かれていたお地蔵様が「路上から大きな百貨店の屋上に上り詰めた」ということから、いつしか人々は「出世地蔵」と呼ぶようになったといいます。


築地本願寺にご縁があるお地蔵さまということで、毎月「銀座出世地蔵尊月例法要」という法話会が執り行われています。首都圏の若手僧侶が出講します。


後輩に譲るためにしばらくご遠慮していましたが、今回はピンチヒッターで赴きました。


伝える内容は変わりませんが、お寺ではない場所(百貨店)で、ご門徒さんではない人に浄土真宗のご法義を伝える機会はとても刺激になります。

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2026年07月09日