2026夏期僧研

東京教区の夏期僧侶寺族研修会が開催されました。


本願寺派司教である武田一真和上から「名号摂化の意義」のご講義をいただきました。

私がお聞かせいただいたところを少しまとめてみます。午前中は「南無阿弥陀仏をいただくとは」「仏さまの仰せを聞くとは」ということをお話しくださいました。

1. 名号(南無阿弥陀仏)は、凡夫を救う「仏の大悲(慈悲)の極まり」であること

浄土真宗の根幹は、目に見えない仏が「南無阿弥陀仏」という言葉(名号)となって私たちに直接届いてくださっていることにあります。
言葉で何かを伝えることは、常に受け手によって都合よくねじ曲げられ、誤解を生むリスクを伴います。仏さまが真理を言葉にして説くことも同様で、人々が教えを誹謗して地獄に堕ちてしまう恐れがあり、それは仏自身が仏としての資格を失うリスクでもありました。
しかし、「仏が仏でなくなる原理にして始めて人間を人間でなくすることも出来る」と、仏さまはあえてその途方もない覚悟を背負い、私たち凡夫を救うために「言葉」となることを選びました。
この仏の深い慈悲である「大悲の足跡(仏語)」が「南無阿弥陀仏」の六字に極まっており、名号が単なる記号や呪文ではありません。名号は仏さまの限りない慈悲と覚悟の結晶であることを理解することが大切です。

2. 仏教は「教(仏の教え)」と「証(凡夫が救われること)」が一体であること

仏教は、研究室にしまわれた新薬や机上の空論ではなく、迷い苦しむ人々が実際に「仏になる(救われる)」ための生きた教えです。
薬が現場の患者を救って初めて価値を証明されるように、仏教も「一人ひとりの仏教徒の人生の上」に息づいてこそ意味を持つと和上は強調されていたのが印象的でした。
本来、深海魚が空を飛ぶことを願えないように、迷いに沈む凡夫が自力で仏やお浄土を願うことは不可能です。しかし、夜空の星の光が遠くから私たちの元へ届くように、お浄土の側から「南無阿弥陀仏」という如来の仰せ(真実の言葉)が届いてくださることで、初めて私たちが仏になる道が開かれます。
教え(教)が存在することと、それを生きる私たちが救われること(証)は決して切り離せず、如来からの呼びかけがこの「私」の人生の上で一つになって躍動しているのです。

3. 「弥陀の本願まこと」という絶対的な地盤と、「自然法爾(じねんほうに)」として受け継がれる念仏の歴史

浄土真宗の信仰において、すべての土台となる唯一無二の基盤が「阿弥陀如来の本願こそが真実である」という一点にあります。
基礎がしっかりしていなければ、建物を建築することは不可能です。同様に強固な地盤がなければ、どれほど立派な教義も成り立ちません。
親鸞聖人は、この本願のはたらきを晩年に「自然」という言葉で表し、「おのづからしからしむ」ことだと示されました。救いに対して「行者のはからひにあらず」ということであり、迷いのある私たちの自力(計らい)を交えず、ただ如来の誓いの独用(ひとりはたらき)によって救われていくという「他力」の真髄を表しています。
さらに、この教えは自分勝手な解釈で作るものではなく、よき人を仰ぐ「孫引きの歴史」として、人から人へ人格を通して800年にわたり伝播してきました。仏のはたらき(自然)に身を委ねることの大切さと、それが先人たちから現代の私たちへと連綿と息づき受け継がれていることの尊さを教えてくださいました。(午後へ続く)

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2026年07月21日