21日から京都・西本願寺において安居が開繙(かいばん)しました。
浄土真宗本願寺派の2026年度安居が21日に始まった。今年は65人が懸席し、8月3日まで京都市下京区の龍谷大大宮学舎・本館講堂(重要文化財)で研鑽する。昨年度の安居は新しい「領解文」を巡る混乱から異例の中止となり、会読に特化した「勧学寮論議会」と題した代替行事を開催。このため今年度は安居の正常化を印象付けている。(『中外日報』より)
残念ながら今回も都合がつかず、ほぼ伺えません……。
会読論題の「広略相入(こうりゃくそうにゅう)」を紹介します。
阿弥陀仏(法蔵菩薩)の願心によって建立された浄土が、さとりの真実を離れないまま、衆生を救いとるために種々の荘厳相を取ることをあきらかにするのが、「広略相入」という論題です。
まず『浄土論』には、
略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なるがゆゑなり。この清浄に二種あり、知るべし。なんらか二種。一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向に説くがごとき十七種の荘厳仏土功徳成就なり。これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごとき八種の荘厳仏功徳成就と四種の荘厳菩薩功徳成就となり。これを衆生世間清浄と名づく。かくのごとく一法句に二種の清浄の義を摂す、知るべし。
かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就し、如実に広略の諸法を知る。(『註釈版聖典七祖篇』p.38)
これらの荘厳功徳の成就をまとめれば、ただ一つの教えの言葉に収まるのです。ただ一つの教えの言葉とは、清浄という言葉です。清浄という言葉は、真実とそれをさとる智慧、および無為とそれをさとる法身が清浄であるということです。この清浄に二種があると知っておいてください。二種とは何かというと、一つには器世間の清浄、二つには衆生世間の清浄です。 器世間の清浄とは、これまでに示した阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳の成就です。これを器世間の清浄といいます。 衆生世間の清浄とは、これまでに示した阿弥陀仏の八種の荘厳功徳の成就と、菩薩の四種の荘厳功徳の成就です。これを衆生世間の清浄といいます。 このように、ただ一つの教えの言葉に二種の清浄の意味が収まっていると知っておいてください。
このように菩薩は、奢摩他と毘婆舎那の行を、時には十七種・八種・四種の荘厳功徳に広げて修め、また時には清浄の一つに略して修めることで、柔軟心を成就し、如実にその功徳のすべてを知るのです。
とあり、「広略」という語が意味するおおよその内容を知ることができます。そのことを明示しているのは『往生論註』です。「浄入願心章」には、
上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば……。(『同』p.139)
これまでに述べた仏国土の十七種の荘厳と、阿弥陀如来の八種の荘厳と、菩薩の四種の荘厳、これらを「広(詳細な展開)」とします。 これらが一法句(清浄という一つの教え)に収まることを「略(要約)」とします。 なぜ「広」と「略」が互いに入り交じり、一つになること(広略相入)をお示しになるのかといえば……
とあり、三厳二十九種の浄土の荘厳相を「広」、入一法句を「略」と規定して、その関係を「相入」というありようで説明しています。その具体的な構造を示すものこそ「二種法身説」です。つまり「広略相入」と「二種法身」の両論題は密接に関係しているのです。
『浄土論』において「一法句といふはいはく、清浄句なり。清浄句といふはいはく、真実智慧無為法身なるがゆゑなり」と、三厳二十九種の荘厳相が「清浄(句)」の義で示されているのは、同じく『浄土論』に、
また向に荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを観察することを説けり。この三種の成就は、願心をもつて荘厳せり、知るべし。(『註釈版聖典七祖篇』p.38)
これまでに、阿弥陀仏の国土の荘厳功徳の成就と、阿弥陀仏の荘厳功徳の成就と、その国の菩薩の荘厳功徳の成就とを観察することを示しました。この三種の荘厳功徳の成就は、法蔵菩薩の願いによってうるわしくととのえられたものです。
と示されているとおり、法蔵菩薩の清浄なる願心によって成立する国土であるため、それは清浄なものなのです。このことを『往生論註』では、
この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり。(『同』p.139)
これら三種の荘厳の成就は、もとより四十八願をはじめとする清浄な願心によって荘厳されたものであるため、原因が清浄であるゆえに、その結果もまた清浄なのです。したがって、偶然(無因)や、ほかのものによる原因(他因)によって生じたのではないと、しっかりと知っておくべきなのです。
と説いています。「因浄なるがゆゑに果浄なり」とあるとおり、因である法蔵菩薩の清浄なる願心による荘厳であるからこそ、その結果として成就される三種荘厳の阿弥陀仏の世界もまた清浄なのです。
『浄土論』に「真実智慧無為法身なるがゆゑなり」と示されているのは、広略相入という浄土のありようが、仏願の成就というさとりのありように他ならないことを示しています。浄土が単なる他方世界の仏国土としてではなく、法蔵菩薩の清浄なる願心(四十八願)にもとづいた因願酬報された仏国土であり、さらに浄土の荘厳相としてあらわされている一々のありようが、仏・菩薩を含めてみな清浄であり、かつ真如そのものをあらわしている一法句と相即関係にあることを、「広略相入」という言葉を用いることによって解釈しているのです。
このように「広略相入」とは、「広」である浄土を構成している具体的なさまざまな荘厳相の一つ一つと、「略」である入一法句(さとりの領域そのもの)とが、互いに相入しあう関係にあることですが、それは荘厳相の一つ一つが、浄土の本質としての真如の顕現に他ならないことを意味しています。すなわち両者は別々のものではなく、一つのものの両面(浄土の本質をあらわす面と、具体的に衆生救済に関わる相の面)であり、「二種法身」の義をあかすところでは、そのことを「由生由出・不一不異」の関係と呼んでいるのです。
浄土の荘厳相の一つ一つは、阿弥陀仏の四十八願にもとづくものでした。とすれば、この広略相入というありようもまた、阿弥陀仏の衆生救済の願が成就したありように他なりません。この論題は、『浄土論』ならびに『往生論註』に説き示される広略相入のありようを解釈するにとどまらず、その関係によって示される浄土とは、法蔵菩薩の清浄なる願心により建立されたものであり、またそのような浄土が常に私たちにはたらきかけ、この現実世界(娑婆世界)を厭わせ、浄土を願生させているところまで扱うべきものです。すなわち、広略相入とは、浄土成立の論理であると共に、衆生救済の論理でもあるのです。
この論題を考えるにあたって、第三者的に浄土の構造やその有無を論じることは無意味であり、自らが摂め取られ往生していく世界であることを傍らにおいて、ただ浄土の構造を考えるものとしてこの論題を扱うのであれば、かえって浄土の本質を見失うことになりかねません。