浄土真宗の教章
- 宗名
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浄土真宗
- 宗祖
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親鸞聖人
- 宗派
- 浄土真宗本願寺派[西本願寺派]
- 本山
- 京都:龍谷山 本願寺[西本願寺]
東京:築地本願寺〈直轄本山〉 - 本尊
- 南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)
阿弥陀如来(あみだにょらい) - 聖典
- ・お釈迦さまが説かれた「浄土三部経」
→『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
・宗祖 親鸞聖人が著述された主な聖教
→『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』
・中興の祖 蓮如上人のお手紙
→『御文章』 - 教義
- 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩む。
この世の縁の尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人びとを教化する。 - 生活
- 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちの、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
- 宗門
- この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人びとの集う同朋教団であり、人びとに阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。
親鸞聖人のご生涯
平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生されました。父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝えられています。
親鸞聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名乗られました。比叡山にのぼられ、主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれます。
しかし、建仁(けんにん)元年(1201)親鸞聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされました。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためでありました。95日目の暁、親鸞聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねます。やはり100日の間、聖人のもとへ通いつづけ、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられました。
法然聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められました。そのころ、法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)されます。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれたのです。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれました。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち:茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられます。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著されました。
嘉禎(かてい)元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰らます。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれました。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答える日々を過ごされました。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げらます。90歳のことでありました。