稱名寺の歴史

稱名寺は、江戸時代前まで駿河国庵原郡(現在の静岡県静岡市)横内村という所に、10代に渡って住職が守り継いだ寺として存立していた。
11代目となる誓了(せいりょう)師は、駿河国の今川氏の元にいた徳川家康公と幼少より竹馬の友であった。家康公が征夷大将軍として江戸城入城の折に、旧寺を近親の者に託し、家康公の供をして江戸へ。江戸城田安門付近に寺地を拝領し、江戸 稱名寺の開基となる。その後、江戸城総堀普請のため武蔵国豊島郡金杉へ、そして宝永年間(1704~)に現在地に寺地を移し、今に到る。現住職は16代目(駿河時代も含めると26代目)。

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滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)の墓【東京都指定旧跡】

江戸時代後期の滑稽本作者。本名は池田八右衛門(幼名:八蔵)。浅草田原町、下谷稲荷町などに住し、櫛を売って業としたともいい、あるいは縫箔師であったともいわれている。新内櫛の三弦をよくし、滑稽本のなかでも茶番物で名を成した。

著書には『花暦八笑人(はなごよみはっしょうじん)』『和合人(わごうじん)』『大山道中膝栗毛(おおやまどうちゅうひざぐりげ)』『人間萬事嘘誕計(にんげんばんじうそばっかり)』などがある。天保12(1841)年6月10日に没。

関思恭(せきしきょう)の墓

江戸時代中期の書の大家。水戸藩士である伊藤氏の出。伊藤氏の先祖は武田家の家臣とされ、水戸藩においては、伊藤玄蕃友玄(徳川光圀の傳役[もりやく=養育係])を初代とする。思恭は、友玄の弟である友近の孫。

幼少から筆や硯を遊具の代わりとするほど書を好んでいた。16歳になると江戸へ。細井広沢に才能を見いだされて入門。その筆法は極めて優れ、たちまち広沢門下の第一となる。草書に巧みで、草聖と呼ばれていた。
思恭はやがて師の広沢の代書を務めるようになり、ますますの評判は高まり書道塾を開く。
浅草にある待乳山聖天(まつちやましょうでん:待乳山 本龍院)の本堂(本尊:大聖歓喜天)に掲げられている『金龍山』の扁額は、広沢の落款印があるものの思恭が代筆したものである。

儒学は太宰春台に学び、詩文を天門から受け、射術(弓術)に優れた文武両道の人であり、27歳で文学を以て常陸土浦藩に仕えるようになる。

師の広沢が亡くなると、三井親和と並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人を擁したという。40歳で妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛を患い歩行が困難となり、家族に介護されるもその運筆は衰えなかった。門人に関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明、曾孫の思亮、いずれも書家として名声を得た。
晩年は宋の婁機『漢隷字源』の開版にも精力を注いだ。

本姓は伊藤。字は子粛(ししゅく)。通称は源内。号は鳳岡(ほうこう)。明和2(1766)年12月29日に没。69歳。