先日、幼稚園の保護者向けに30分の法話をする機会がありました。

そのときは「慈悲」をテーマにして、
①本堂の中心にいらっしゃる阿弥陀如来は慈悲の仏さまである。
②しかし仏ではない私たち人間には慈悲はない。
③では慈悲とは何か?
ということを身近なエピソードに触れながらお話ししました。

しばらくして園長先生に参加者の感想を聞いてみたところ……
「人間は慈悲がないということはない。私は朝早く起きてちゃんと子どものお弁当を作って送迎もしている。周りの母親にはそれすらできていない人もいる」
「私は子どもを本当に愛している。慈悲が0ということはないはず。仏が10なら私も5くらいある」
と母親から意見があったと教えていただきました。

「親と子」と「仏と私」の違いも例話を用いて丁寧に話したつもりだったのですが……自分の布教力のなさを反省しています。
ただ、園長先生と話していて次のようなことを教えていただきました。
「仏は慈悲の存在だけど、人間は慈悲の存在ではない……という話は人間側を否定する話になる。法話に慣れていない人や参加していた若い世代の人には、どれだけ仏教的に説得力のある正論であっても自分が否定される話は受け入れにくいのではないか」
なるほど……と深く頷かされました。

私は浄土真宗に慣れ親しんでいるので「仏さまは◯◯だけど、衆生は××」と聞いても、何も違和感がありません。

しかし慣れていない人からすると「は? 私だって頑張ってますけど」という反発が起こるのは無理もないです。
なぜなら自分が否定されるわけですから、受け入れ難いに決まってます。

そうすると例えば今回のように「人間に慈悲はない」ということを話すときは「確かになぁ」と、深く共感できる「あるあるネタ」のようなエピソードを考えないといけません。