浄土真宗の仏さまは阿弥陀如来という仏さまで、大慈大悲(だいじだいひ|大いなる慈悲)の仏さまといわれます。
慈悲というのは、「慈」と「悲」という別々の言葉を合わせたものです。
「慈」とは、相手に楽を与える「与楽(よらく)」という慈しみを意味します。
原語は古代インド語のmaitrī(マイトリー)で「友愛(ゆうあい|誠の親しい友への情)」のことです。これは私たちの世界でいう特定の人に向けられた友情ではなく、一切の生きとし生ける者に向けられた「見返りを求めない愛情や心」といったところでしょう。
「悲」とは、相手の苦に寄り添って、その苦しみを取り除いて解放しようとする「抜苦(ばっく)」という思いやりを意味します。
原語は古代インド語のkarunā(カルナー)で「呻き声」のことではないかといわれます。相手の苦痛を自分こととして苦しみ、嘆き悲しむことから「同情」「憐れみ」を意味するようになったようです。要するに「苦しみをともにする同感(同情・共感)の心」とか「苦痛を取り除いてあげたいという心」といったところでしょう。
他にも説はあるようですが、「あなたに見返りを求めることなく、あなたの痛みを我が痛みと受け取って、我が身を捨ててでもあなたを救う」という仏さまが私たちに向けてくださっている慈しみの心と思いやりの心のことと受け止められています。
仏さまの心として慈悲が語られる背景には、仏さまではない私たち人間が「見返りを求める」「相手の悲しみに共感できない」存在であるということが分かります。
この「慈悲」という概念は人間の世界にはないので、いまいち理解しにくいのが正直なところ。
また、「悲」=「抜苦」といっても、別に人間の苦しみが消えてなくなるという訳ではありません。しかし、ひとりで抱えている悲しみをともにしてくれる人がいると安心できるということがあります。
アメリカのコロラド州にあるブルームフィールドのメリディアン小学校での出来事です。
生徒のひとりであるマーリー・パックさん(9歳)は、ガンの化学療法を受けるために数週間学校を休んでいました。治療の副作用で髪の毛がない状態となっていたといいます。
そんなマーリーさんが学校へ復帰するにあたって、何十人もの生徒たちが彼女を気遣い支えようと立ち上がりました。なんと、生徒たちは自分の頭を丸刈りにしたのです。
約80人の生徒たちが、「Be Bold, Be Brave, Go Bald.(大胆になろう、勇気を出そう、丸刈りにしよう)」と呼ばれるチャリティに参加して、切った自分の髪を寄贈したり、頭を剃り上げたりすることを選んだと地元紙のブルームフィールド・ニュースでは報じられています。
髪の毛を剃ったのは生徒だけではありません。校長と副校長をはじめ、3人の女性教諭だけでなく、とある生徒の母親もマーリーさんのために髪を剃りました。
マーリーさんの担任教員だったエリン・ダッパーさんは、自分で髪を切っただけでなく、マーリーさん本人にも髪の毛を剃ってもらったといいます。
「こんなに多くの人たちが、自分の頭を剃ってくれるなんて……学校に戻って来て、髪がないのが自分1人じゃなくて心強く感じます。私はただ、ありがとうと言いたいです」
クラスメイトたちの反応を見て、マーリーさんは自分でも信じられないほど感動して語りました。
心温まる素敵な話ではないでしょうか。もちろん、一時的なものですし、ニュースの裏側で本当は剃りたくなかったけど空気を読んで剃った人や、剃らなかったことで「冷たい奴だな……」と思われた人もいるかも知れません。
さらに言えば、世の中には自分の好みで頭を剃っている人もいます。頭を剃るのが苦行みたいな扱いをされると嫌な気持ちになる人もいるのではないでしょうか。人間同士の営みに限界を感じます。
何よりもマーリーさんの病気の本当の辛さは、本人にしか分からないのが実際のところ。
それでも、こうして自身の悲しみを共有してくれる存在があることはなんとも頼もしいことです。
私たちも辛いことや悲しいことがあった時に、自分だけが苦しんでいるのだと思うと、ひとりで孤独のなかに沈んで泣いていかなければなりません。
しかし、私の悲しみを知っていて寄り添ってくださる仏さまがいらっしゃって、いつでも私とところに「南無阿弥陀仏」とお越しくださる──「まかせよ、救うぞ、安心しろよ」という仏さまの言葉を受け取っていくときに「私はひとりではなかったんだな。悲しみを背負ってくださる仏さまがいらっしゃるんだ」と聞いていくのが、大悲の阿弥陀如来の救いを説く浄土真宗の教えです。