仏教の真理とは「時間」と「空間」を超越しています。
私たちは「時間が経ったから物が変化した」と考えます。
例えば「食べ物が腐ったのは時間が経ったから」と受け止めます。
しかし仏教は「時間の経過で食べ物が腐る」とは考えません。反対に「物が変化することを『時間』と名付ける」と理解します。
アインシュタインの相対性理論にもそういう側面があります。アインシュタインは「相対性理論とは?」と質問をされたときに「恋人といる1時間は1分くらいにしか考えられない。しかし焼けたストーブの上に座った1分は1時間くらいに感じられる」と答えたそうです。
「時間」とは全員が同じように認識できる固定的なものではありません。人によって感じ方は違います。
仏教でも同じように固定的・絶対的な時間を考えず、物が変化したことを「時間」と名付けるのです。
お釈迦さまがさとりを開かれた時代、インド・中国にはさまざまな宗教や哲学がありました。仏教ではそれらをすべて「外道」という言葉で表現します。外道の外は仏教以外の外です。
外道の中に「時外道(じげどう)」といって「時という不可思議なものがすべてを支配している」という考え方があります。
ギリシャ神話やローマ神話にも「時の神」が登場します。
つまり物事を変化させているのは「時」という神様であるという考え方です。
一方で仏教ではそのように物を支配する絶対的な神様は想定しません。「時間」が物を変化させるのではなく、物が変化したことを「時間」と名付けています。
真理は変化することがないので、真理には時間がないのです。
「空間」とは「距離」と「方向」です。「距離」と「方向」は2つ以上のものがあってはじめて成立します。
1つしかないと距離や方向を存在しません。真理は1つであり、距離もなければ方向もないのです。
「真理」は時間的存在や空間的存在を超越しています。真理そのもの、つまり仏さまにはそういう側面(法性法身)もあります。
しかし時間や空間を超えた真理は、時間と空間を生きる私たちと関わることができません。
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。
「現に(時間)」「西方に(空間)」に阿弥陀如来がいらっしゃるという教説は、私たちを救うために時間的・空間的な存在として現れたのが阿弥陀如来という仏であることを示しています。