このように衆生を化益する仏身というので如来を法界身というわけですが、それについて善導大師は「心遍」「身遍」「無障碍遍」という三義をあげて説明されました。
「心遍」とは、十方の衆生を救おうと思う大智大悲の心は、十方一切の衆生のうえに普く行きわたっているということです。
「身遍」とは、如来はもともと身心一如の方であるから、仏さまの心の到り届いているところには仏さまの身はまた随って普く行きわたっているということです。
「無障碍遍」とは、如来の身心が衆生のうえに届いて救済活動をされるのに何の障りもないということです。
こうして法界身としての阿弥陀如来は、その成就された無碍の智慧のままに、心も身も障りなく十方の衆生界にゆきわたって、一人一人に宿ってくださるのです。
だから衆生がもし心を鎮めて如来を観想するならば、その想う心のうえに如来は必ず三十二相八十随形好を顕してくださるといわれるのです。
それを『往生礼讃』には
弥陀の身心法界にあまねし。衆生の心想のうちに影現したまふ。
といわれています。
しかし「心遍」「身遍」「無障碍遍」の本意をいえば、たとえ観想が成就しない衆生のうえにも法界身としての阿弥陀仏の功徳は行きあたり、私どもの煩悩・悪業にさまたげられることなくお救いくださることになりましょう。
そうすると法界身とは「尽十方無碍光如来」の徳義をあらわしているということもできます。すなわち『観経』の顕の義からいえば、法界身とは観念の対象となる諸仏のことですが、経の隠彰の本意からいえば、煩悩具足の凡夫を念仏の衆生に育て上げて救う第十八願成就の「尽十方無碍光如来」のことであったといわねばなりません。
存覚上人が『浄土見聞集』に、
無碍の仏智は行者の心にいり、行者の心は仏の光明におさめたられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず。これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり、諸仏は弥陀部の分身なるがゆへに諸仏をば弥陀とこころうべしとおほせごとありき。
といわれています。阿弥陀仏の衆生をさわりなく救いたまう無碍の智慧は、衆生に届いて信心となり、信心の行者は無碍光仏のなかにさわりなく摂取されていくという無碍の救いのはたらきをあらわすために『観経』には「諸仏・如来はこれ法界身なり」……と説かれたというのです。
また『安心決定鈔』には
かるがゆゑに機法一体の念仏三昧をあらはして、第八の観には、「諸仏如来是法界身入一切衆生心想中」(観経)と説く。……弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入り満つゆゑに、「入一切衆生心想中」と説くなり。ここを信ずるを念仏衆生といふなり。
といわれています。
『蓮如上人御一代記聞書』によれば、この『安心決定鈔』の言葉の意味について、蓮如上人は
一 「弥陀の大悲、かの常没の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定鈔・本意)といへること不審に候ふと、福田寺申しあげられ候ふ。仰せに、仏心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入りみつ」(同・本)ともあり。しかれば、ただ領解の心中をさしてのことなりと仰せ候ひき。ありがたきよし候ふなり。
といい「信心の徳として味わうことだ」と教えられたということです。
【「法界身①~⑤」参考・引用】
『真宗聖教全書』
『註釈版聖典』
『註釈版聖典 七祖篇』
『聖典セミナー 観無量寿経』