このような解釈に対して、善導大師はそれを全面的に否定していかれました。
あるいは行者ありて、この一門の義をもつて唯識法身の観となし、あるいは自性清浄仏性の観となすは、その意はなはだ錯れり。絶えて少分もあひ似たることなし。
と批判して、次のようにいわれています。
すでに「仏像を心に想いうかべよ」とすすめ「三十二相というすがた形をもった仏を観想せよ」とすすめられているのであるから、その文脈からみても法界身とは有相の仏身をさしていることは明らかではないか。
もし法界身が法身仏であるとすれば、それは無分別智の領域であって、色もなく形もない無相の仏であって、対照的に観想することのできるものではないから、凡夫に観想せよと教えられるはずがない。
いまこの『観経』に説かれている観想の行は、如来がはるかに末法の時代に生きる罪障の凡夫に如来浄土を実感させるために、わざわざ浄土は西方にありと一定の方処をさし、詳しく荘厳の相を説き示し、阿弥陀仏も三十二相という形有る仏として想い浮かべさせようとされているのです。
これを「指方立相」(方処を指示し、相状を弁立する)の観というのであって「無相離念の法界身」のような、凡夫に相応しくなし観を説かないのがこの経の特質なのです。
凡夫に法界身をすすめることは、まるで神通力をもたない人に「空中に家を建ててみよ」と要求するようなものであって、無謀な教えです。
愚かな凡夫のために「指方立相」して、如来・浄土を知らせ、往生を願わさせるところ『観経』に説かれた浄土教の特色があるのだというのです。
もともと「法界」というのは、いろいろな意味を持っている言葉です。それぞれの文脈にしたがって解釈しなければなりません。
法界とは「意識の対象となるすべてのものをさす」という場合(十八界の中の法界)もあれば、「真如・法性のこと」とする場合もあります。
慧遠大師などは「真如・法性」のこととみて「法界身=法身」とされたわけです。しかし「その解釈は『観経』の文脈に相応しくない」というのが善導大師の主張でした。
すなわち法界とは「如来の教化の対象となっている衆生界のこと」であり、身とは「教化者である仏のこと」であると、善導大師は解釈されました。
法界とは「所化(教化の対象)の境」であり、身とは「能化に仏身」ということで、法界身とは衆生界を教化し利益する仏身ということだというのです。
法界を所化の衆生界とされたのは、法界を意識の対象とすることから転じて、如来の大悲の智慧の対象となっている十方の衆生のこととされたのでしょう。