さて法界身について、地論宗の大成者である浄影寺・慧遠大師はその『観経義疏』末の中で「法界身とは法身のことである」と述べています。
法身とは仏の無分別智によって悟られている不生不滅の法(真如・法性)のことで、すべての仏の本体であるから「諸仏・如来はこれ法界身なり」といわれたというわけです。
また衆生の煩悩の心もその本性は法界真如そのものですから「この心これ仏なり(是心是仏)」ともいわれるというのです。
どんなに濁っていても水の本体は清浄なわけですから、浄化しさえすれば本来の清浄を回復するように、懺悔し、滅罪して観仏の修行を行えば心の濁りが浄化され、心の濁りが浄化され、心は本来の清浄ば法身にかえるわけで、それを「この心、仏と作る(是心作仏)」といわれているのだと解釈されています。
こうして観仏の修行の重要性と観念によって、さとりが完成することの必然性を証明するためにこの法界身の教説がなされたと見ていくのです。
また三論宗の大成者である嘉祥寺・吉蔵大師も、その『観経義疏』で「法界身とは仏の法身のことである」といってますから、基本的には慧遠大師と同じ考えでした。
いずれにしても「法界身とは諸仏の本性であると同時に、一切の衆生の心の本性でもある[真如・法性]そのもののことで、それを仏の側でいえば[法身]といい、衆生のうえでいえば[心の本性である本来清浄な仏性(如来蔵)のこと]である」と解消されたわけです。
こういう考え方は中国でも日本でも広く行われ、阿弥陀仏といっても浄土といっても我が心の本性をいうので、本来、我が心の中にあるといい「唯心の弥陀」とか「己心の浄土」などと主張したものでした。