西方の弥陀


白隠禅師の有名なエピソードを紹介します。

ある日、若い武士が禅師の元を訪ねてきました。

「白隠禅師さまとお見受けいたします。うかがいたいことがございます」

「なんでしょうか」

「地獄・極楽とは何処にあるのでしょうか」

実はこの武士は、禅師の名声を聞いて「(どれほどの実力なのだろうか)」と試すつもりで質問をしました。

「貴公は見たところ立派な武士のようだ。しかし、いい年をして、まだ『地獄はどこにあるのか』『極楽はどこにあるのか』を気にしているなんて……まったく情けない腰抜け武士だな!」

禅師は武士の質問の意図を見透かして挑発をします。すると、若い武士は


「いかに高僧といえども、許せん!」

と、刀を抜いて禅師に襲いかかりました。

武士の太刀をヒラリとかわした禅師が一言。


「それ!そこが地獄じゃ!」

武士はハッとすると、緊張の糸が切れたかのようにその場にへたり込んでしまいました。

「禅師さま、ご無礼の段、平にお許しを……」

そこで、すかさず禅師が一言。


「それ!そこが極楽じゃ!」

〈参考『伝説と民話(4)』p.232〉

この話は地獄や極楽はどこか遠い世界ではなく、私が心の中に作り出す世界であることを教えてくれています。
不安なときの自分は地獄にいて、安心しているときの自分は極楽にいる──という考え方です。


このような極楽浄土理解を「唯心(ゆいしん)の浄土」といいます。さらに詳しくは『改邪鈔(がいじゃしょう)』に「己心(こしん)の弥陀・唯心の浄土」と述べられています。
阿弥陀仏も極楽浄土も自己の身心のうちに本具する性徳(しょうとく)であるという意味で、華厳宗・天台宗・禅宗などの聖道門が主張する説です。


浄土真宗の宗祖である親鸞聖人はこうした説を「自性唯心(自らの性は、ただ心のみ)」と述べられ、次のように明らかにされています。

しかるに末代(まつだい)の道俗(どうぞく)、近世(こんせ)の宗師(しゅうし)、自性唯心(じしょうゆいしん)に沈みて浄土の真証(しんしょう)を貶(へん)す、定散(じょうさん)の自心に迷ひて金剛(こんごう)の真信(しんしん)に昏(くら)し。
【現代語訳】末法の世の出家のものや在家のもの、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土への往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。

「自性唯心」とは「自性清浄心」ともいい、私の心は本来は清浄なものであって、煩悩という汚れを取り除けば元の清浄な心に戻ることを意味します。
その清浄な心こそが阿弥陀仏であり浄土であり、私たちに内在している本性そのもの……とする説です。

親鸞聖人はこうした「己心の弥陀・唯心の浄土」「自性唯心」の阿弥陀如来理解・極楽浄土理解を否定しています。


三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市)に七三郎という篤信の念仏者がいました。

ある日、いつものように大きな声で念仏をしていると、隣の駿河国から説法で三河国を訪れた白隠禅師が声をかけてきました。


「そなたが篤信の念仏者と有名な七三郎か。先ほどから熱心に称えている『なんまんだぶ』の念仏は、いったいどのような“おまじない”なんだ?」

浄土真宗では呪術・現世祈祷の類には頼ることありませんから、これは禅師の皮肉のようなものでしょう。

「おまじないじゃありません!」

と返ってくるかと思いきや──


「これはとても大変なおまじないであります」

「ほぅ……いったいどのようなまじないなのだ?」

「鬼が転じて仏と成る大変に尊いおまじないなのです」

禅師の意地悪をものともせず、即座に念仏の大きな功徳を提示した七三郎。これには禅師も二の句を継ぐことができません。


「そうかそうか、それは結構。ところで、念仏を称えるものは阿弥陀如来に救われるというが、その阿弥陀如来とやらの姿が見えないぞ。いったい何処にいるんだ?」

「お経の中に『これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す』とありますから、ここから西に十万の仏さまの世界を隔てたところにある極楽浄土にいらっしゃいます」

「そんなに遠くにいるのか。じゃあいざという時に間に合わないじゃないか」

「そうなんです。だから今は阿弥陀さまは極楽浄土にはいらっしゃらないんです」

「はて? どこへお出かけかな?」

「巡教中でございます」

「今はどこを巡教しているのだ?」

「ちょうど日本にお越しくださっていますよ」

「日本のどの辺かね?」

「今は三河にいらっしゃってます」

「なんと、この三河に来ておられるのか。それならば私も是非お目にかかりたいものだ」

ニヤニヤと笑う禅師の顔を見ながら、七三郎は「ふう」とため息をつき、こぶしで胸を叩きながら言いました。


「まだ分かりませんか?ここですよ、ここ!」


西方十万億仏土を過ぎた極楽にまします阿弥陀如来は、いま「南無阿弥陀仏」の六字となって私の胸に飛び込んできてくださっています。
阿弥陀仏・浄土は自力で磨いた内側に現れるのではなく、自己の外に説かれ、そのはたらきかけを我が身にお聞かせあずかることに愚者の宗教である浄土門の意義があります。


善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』には「見仏」について「仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ」と示されています。
阿弥陀仏のはたらきが「衆生の心想の中に飛び込んで現れてくださるから、仏を見る(出会う)ことができる」ということです。


「浄境を標す(浄土の境界を観見する)」については、「仰ぎて聖力のはるかに加するを憑めば、所観、みな見しむることを致す」とあります。
私たちはこのいのちに入り満ちる仏さまの力によってこそ浄土を見ることができるのです。


善導大師の明らかにしてくださった「見仏」は、行者の心を無想にした己心の仏を見る見仏ではなく、阿弥陀如来のはからいのもとでの見仏です。
さらにいえば、「眼見」ではなく、「聞見」であることも付け加えさせていただきます。

法話一覧

2018年06月10日