芸能人や政治家の失態・失言が叩かれるニュースを最近よく見ます。
特に批判の多い案件を「炎上」と呼びます。
仏教的には非常に的を射た表現ではないでしょうか。
仏教では私たちの世界を煩悩の火が燃えさかる「火宅(かたく)」といいます。
人間は自分の都合が良いものを「善」、悪いものを「悪」と考え、愛憎の入り交じった影像を虚空のスクリーンに映し出しながら、それが実在する確かなものと思い込み、是非を争って狂奔している──仏さまがご覧になった私たちは「煩悩具足の凡夫」「悪人」と呼ぶに相応しい姿であったといいます。
そうした凡夫同士の営みによって成り立つ世間は、「火炎に包まれた家」のようなものです。
SNSによって凡夫の思想・発言が表層化すれば、「炎上」するのは仕方がありません。
「私たち凡夫の営みはすべてそらごとにすぎない。真実はただ如来だけである」という態度は、聖徳太子が既に言われています。
〈photo by TOKYODO〉
『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』によると、太子が亡くなったときに、残されたお妃の橘大娘女(たちばなのおおいらつめ)は悲しみの中から太子の往生された浄土の様子を刺繍した「天寿国繍帳」を織り上げました。
そこには太子が生前にお妃に語っていたという次のような言葉が記されています。
我大王所告 世間虚仮 唯仏是真
【書き下し】我(あ)が大王(おおきみ)の告りたまへらく、世間(よのなか)は虚り仮りにして、唯(ただ)仏(ほとけ)のみこれ真(まこと)ぞ〈『日本思想体系』2、p.371〉
愛するお妃に「世間虚仮 唯仏是真」の言葉を残した太子は、自身も含めて人の営みと世のいつわり、空(むな)しさに深い悲しみと痛みを感じておられたのでしょう。
太子は激しい権力闘争を勝ち残った政治家・指導者であったのと同時に、
「国家の事業を煩(はん)とす〈『維摩経義疏』〉」 「国王・王子・大臣・官庁に親近(しんごん)せざれ、これ驕慢(きょうまん)の縁なり〈『法華経義疏』〉」といわれるような反世俗的な一面も持っていました。
さまざまな政治闘争の中を生きられた太子の晩年は、斑鳩宮にこもって瞑想されることが多かったと伝えられています。
心を許せるお妃にだけは「世間は虚仮なり」と言わずにはおられなかったのかもしれません。
そうした自身の危うさと人の世への悲しみを通して、その空しさに入り満ちる仏さまの大悲のみ心と智慧のみ教えへの思いを「唯仏のみこれ真ぞ」と深めていかれたのでしょう。〈参考『聖典セミナー』〉
現代に限らず、人間が生きる時代に「炎上」は付き物です。
江戸時代中期の臨済宗妙心寺派の禅僧である白隠禅師の炎上エピソードを紹介します。
禅師は駿河の原宿(現在の静岡県沼津市原)の松蔭寺に住んでいました。
同じ村に住んでいたとある娘が出産しました。ところが、父親となるべき相手の男性はいません。
娘の父親は「誰の子どもなんだ」と問い詰めましたが、娘は頑なに相手の男の名前を答えることはありませんでした。
しかし、父親の圧力に耐えられず「実は……白隠さんの子どもなの」とウソをつきます。
「(父親が日ごろから敬愛している白隠さんの子どもって言っとけば父親も許してくれるだろう)」という娘の浅知恵です。
ところが、娘の思惑とは裏腹に父親は激昂。禅師の住む松蔭寺に駆け込み、
「この生臭坊主!!よくもうちの娘をキズものにしてくれたな!!
さあ、これがお前の子どもだ!!受け取れ!!」
怒鳴りながら赤ん坊を突き出しました。
すると、禅師は何の言い訳もせずに、
「ああ、そうか」
と赤子を受け取りました。
飴湯(あめゆ)や米の粉をといて与え、翌日からは村中をもらい乳して歩き回ったそうです。
それまで、「高僧」「傑僧」として尊敬されていた禅師でしたが、一転してとんでもない破戒僧と蔑まれ、弟子たちだけでなく信者も離れていきました。まさに「炎上」状態です。
にも関わらず、禅師は来る日も来る日も悠然ともらい乳をして歩き続けます。
赤子を親身になって育てる禅師の姿に娘の方が堪えられなくなり、ついに父親に本当のことを白状しました。
驚いた父親はすぐに禅師に非礼を詫び、恐る恐る「赤子を返してもらうことは……」と申し出ました。
すると、このときも禅師は
「ああ、そうか」
と泰然として赤子を返したといいます。
白隠禅師は念仏者ではありませんが、仏法をよりどころとするなかで自分の都合を中心にして行う人間の善悪判断の虚構性と曖昧さ、愚かさをよくよくご存じだったのでしょう。
周囲から蔑まれ、叩かれ、何を言われたとしても「ああ、そうか」「人間とはそういうものだ」「世間とはそういうものだ」と受け止めることができた──のかもしれません。
……内心は怒っていたのかもわかりませんが。