「遇」

「あう」という言葉に漢字をあてるときに、どんな漢字を使うでしょうか。

会う・合う・遭う・遇う・逢う・値う……。

辞典を読むと

【会う】人が集まること
【合う】ぴったりとあわさる
【遇う】思いがけずに出あう
【遭う】ひょっこりと出あう
【逢う】二つのものが、ふと出あう
【値う】まともにそこにあたる

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、主著『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』の冒頭にて、「値」や「遇」が用いられています。

あうことが難しい真実の教えにであうことができたという喜びが表現されているのでしょう。他にも「無上の功徳値遇(ちぐう)しがたく」と、仏さまの功徳と巡りあうことを「値遇」と述べられています。

さて、この「遇」の字については、昔から「眼見(げんけん)」と「聞見(もんけん)」の二つの説明があるようです。

後者については、親鸞聖人が書物に引用している『平等覚経(びょうどうがくきょう)』や『華厳経(けごんきょう)』というお経にも出てきます。

「一つには眼見、二つには聞見なり」と両者が出てくる箇所もあります。『涅槃経(ねはんぎょう)』の「獅子吼品(ししくぼん)」と呼ばれる部分です。

「眼見」「聞見」と近い言葉で、「見遇(けんぐう)」「聞遇(もんぐう)」という言葉でも説明されています。


「見遇」とは、私たちが一般的に考える会い方です。友達と会う。家族やペットと会う。目の前にいる対象との接触を指す言葉です。


対して「聞遇」とは、目の前に相手がいようといまいと関係なく、その声を聞き、こころに出会っていくことだといいます。

例えば、親鸞聖人の言葉遣いですと、仏さまと“であう”ということは、なんとなく仏教の知識を蓄えたり、仏像を鑑賞することではないようです。
その仏さまが私にどのようにはたらいているのか、その仏像のすがたが私にとって何を意味しているのか。そういった仏さまの“こころ”を聞き入れているすがたこそが、仏さまと出遇っている(聞遇)すがたです。

このことについて、龍谷大学の井上見淳先生がこんなお話をご紹介くださいました。

今から2500年前。インドにお釈迦さまがご在世のころのお話です。
お釈迦さまが説かれた仏教の教えは、多くの人を介して、遠くまで伝わっていきました。
遠くで教えに接した者たちは、「この素晴らしい教えを説かれたお釈迦さまに是非ともお目にかかりたい」と考えます。

しかし、自動車も電車もない時代。歩いてお釈迦さまのいるところまで行くのは大変なことです。

さらに、托鉢(たくはつ)といって、食べ物は蓄えずにその日に必要な分だけをいただいて生活します。

お釈迦さまに会いに行こうと遠くへ旅をしようと思えば、命がけの旅となります。

それでも、南方のバラシという国のとある二人の比丘(出家者)は旅に出ることにしました。

街を過ぎて、森を抜けて、荒野に出ます。


日差しに照りつけられながらジッと暑さに耐え、歩みを進めていきます。

もう喉がカラカラで限界……そのとき、目の前に水飲み場が。二人は大喜びで駆け付けます。

一人は喉を鳴らして水を飲む。しかし、もう一人は水を口につけようとして止めてしまいます。

「なんで飲まないの?身体がもたないよ?」

「でも、ここの水は虫が泳いでいるよ」

虫がいる水を飲むのは気持ちが悪いしお腹を壊す……ということではなくて、水を飲むと虫まで飲みこみ、その虫のいのちを奪うことになります。

お釈迦さまがおっしゃっていたと聞く「殺生(せっしょう)してはならない」の教えを破ってしまうことになります。

「そんなことを言っても、もし水をここで飲まなかったら、お釈迦さまにお目にかかる前に死んでしまうじゃないか」

「確かにそうなんだけど、お釈迦さまの教えを破ることはできないよ」

しばらく休んでから旅を再開しますが、水を飲まなかった比丘は動けなくなり、やがて息絶えてしまいます。

水を飲んだ比丘は、なんとか旅を続けてお釈迦さまの元へ辿り着きました。

「そなたはどこから来られたのですか?」

「私は南方のバラシ国からやって参りました」

「それは遠いところから……一人で来られたのですか?」

「いえ、実は二人で始めた旅でした」

今までのいきさつを詳しく聞くと、お釈迦さまがおっしゃいます。

「そうだったんですか……。

水を飲まずに倒れた比丘は、あなたのように今は私の目の前にはいません。

しかし、すでに彼はもう私に遇っています。

あなたは今、こうして私の目の前に来てくれたけれども、果たして本当の意味で私と遇ったと言えるのでしょうか」

 

とても厳しいお諭しです。同時に大切なことを教えてくださっています。

目の前にはいないけれども、仏法に生きた比丘はすでにお釈迦さまに遇っているというのが、まさしく「聞遇」のすがたであります。

すがたや形が目の前にはなくても、その相手の言葉や、背景にあるこころ、私に向けられた思いを受け取るときに、私たちは「出遇う」ことができます。

阿弥陀如来という仏さまは、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」という言葉のすがたとなって、私たちの世界へお出ましくださった仏さまです。
遠く離れた世界で待っているのではなく「あなたを独りにさせません」「安心してまかせてください」と私のところにお越しくださったということです。
すがたや形は見えませんが、口に称(とな)えれば「なんまんだぶ」と響きとなって、私のいのちを摂め取ってくださる仏さまです。

この仏さまのこころを聞き受けていくことそのままが、仏さまと出遇うということなのです。

また私たちが仏さまと出遇うご縁を紡いでくださった先人やご先祖も、この両手が合わさるところに出遇うことができるのだと、「遇」の言葉から味わわせていただきました。

法話一覧

2017年03月19日