今年の安居の会読論題のひとつが「指方立相(しほうりっそう)」です。
阿弥陀如来の建立した安楽浄土について『仏説無量寿経』には
法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ。
とあります。
『仏説阿弥陀経』には
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
とあります。
どちらの経典にも「阿弥陀如来の浄土はこの娑婆世界より西方に位置し、この娑婆世界から十万億の仏土を過ぎたところに存在する」と説かれています。
中国の高僧・天親菩薩の『浄土論』には、阿弥陀如来の浄土は「三厳二十九種」と示されています。
つまり浄土は煌びやかにお飾りをされた荘厳相をもって建立された世界と表現されているのです。
以上のように阿弥陀如来の浄土は「色も形も際限もない(無相無辺)」ではなく「私たちの世界から見て西方という方角にある」「十万億の仏土を過ぎたところ存在する」「荘厳相を有している」と説かれています。
なぜ真実のさとりの世界である浄土が、私たち煩悩具足の凡夫が認知できるような具体的な表現で説かれているのでしょうか。
このことを明らかにするのが「指方立相」という論題(テーマ)です。
この「指方立相」という言葉は、善導大師の『観経四帖疏』「定善義」に
またいまこの観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。総じて無相離念を明かさず。如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。
と論じられている中の「方を指し相を立て」を受けたものです。
親鸞聖人は『教行信証』「化身土文類」に
宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義 四二七)といへり。いかにいはんや、無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同 四三三)といへり。
【現代語訳】中国の善導大師の説かれた『観経疏』によれば「衆生の心にしたがってお釈迦さまはすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかりしれない昔から迷い続けた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いをひとつに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いをひとつに集中することさえできないのだから、『観経疏』には「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから『観経疏』には「お釈迦さまは、はるか遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いをひとつに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
と述べています。
『観経四帖疏』「定善義」の「方を指し相を立て」の主語について考えてみましょう。
「この観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ」とあることから、『観無量寿経』において「心を住めて境を取ら」せようとしているのはお釈迦さまです。
つまり「お釈迦さまが方を指し相を立て」いるのがわかります。お釈迦さまが浄土の方角を指し示して、浄土の相状(すがた)を弁立されたのが「指方立相」です。
具体的に方角は「西」で、相状は「四十八願によって成立した相」をさしています。
ただしお釈迦さまを主語にするのではなく、「法蔵菩薩(阿弥陀如来)」が西方を願取したと考える説もあります。
この場合は主語は阿弥陀如来になり、「指方立相」は「阿弥陀如来が浄土の方角を指定し、浄土の相状を建立した」となります。