もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。
この『領解文(りょうげもん)』は、真宗教義を会得したままを口に出して陳述するように第8代宗主蓮如上人(1415~1499)が作られたものとされています。
1481(文明13)年、京都山科に本願寺が落成した頃から拝読するようになったといわれます。大谷派では『改悔文(がいけもん)』とも称します。
内容は簡潔で、当時の一般の人にも理解されるように平易に記されたものです。異安心や秘事法門に対して、浄土真宗の正義をあらわしたものです。
蓮如上人は常々、自らの教えの受け止め方を口に出して述べることの重要性を指摘しています。たとえば
蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり。(『蓮如上人御一代記聞書』第七四条)(註p.1255)
蓮如上人は「なかなか信心を得ることができないと口に出して正直に言う人はよいです。一方で言葉では信心を語って、口先は信心を得た人と同じようであり、そのようにごまかしたまま死んでしまうような人を私は悲しく思います」と仰せになりました。
と「信心が得られません」「阿弥陀如来の救いを受け入れられないです」といった告白であっても、心中をそのまま語ることが大事だとおっしゃいます。一方で口先で分かっているフリをして、そのまま命を終えていくことはいけないとも述べられています。
また
蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。(『蓮如上人御一代記聞書』第八六条)(註p.1259)
蓮如上人は「仏法について語り合う場では進んでものを言いましょう。黙り込んで一言も喋らない者は何を考えているかわからなくて恐ろしいです。信心を得た者も得ていない者も、とにかくものを言うのです。そうすれば心の奥で思っていることもよくわかりますし、間違って受けとめていたことも人に直してもらえるでしょう。だから進んで発言しなくてはいけません」と仰せになりました。
と、ご法義を誤った理解をしている者がいたとしても、口に出すことでその理解が是正される機会となるとおっしゃってます。