(前回より)このように蓮如上人は「法義の領解について自らの心中を包みかくさず申し述べることが重要である」とおっしゃっています。
『御文章』四帖目第五通には
所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。(註p.1170)
とあり、本願寺の報恩講へ参拝した折には親鸞聖人の御真影の前において自力を悔い改めて他力にまかせる「改悔(がいけ)の心」を起こし、回心懺悔してその心中を諸人に語るように述べられています。
こうして本願寺の報恩講では自らの信仰告白がなされるようになりました。
またその際、蓮如上人がその告白内容を聞き、教義に適ったものであるかの判定を行います。
以降、本願寺の報恩講における信仰告白は重要な儀礼として定着することとなり、やがて改悔という言葉はこの信仰告白の儀礼全体を意味するようになりました。
ただし『山科御坊事幷其時代事(やましなごぼうのことならびにそのじだいのこと)』に、
さて聽聞に望なる人は縁々に五人三人、後に佛前に被出候間、人多みえ候時も百人とも候はず候、五六十、七八十人が多勢の分にて候間、坊主衆計一人づゝ改悔せられ、一心のとおり心しづかに被申、惣の衆五人か十人か後、終に被申間、殊勝なる改悔にてたふとく候つる。(浄聖全5p.940)
一 此近年天文以來まいり候て、報恩講にあひたてまつり難有候。聽聞申候に、讚嘆はじまり、改悔五人三人被申歟とおもへば、兔角して一度に五十人百人大聲をあげてよばゝりあげて被申時は、興ざめてきもゝつぶれ、たふとげもなく候。喧嘩なども出來候歟ときゝなし候事、古(いにし)へなき事にて候。(浄聖全5p.941)
とあるように、蓮如上人のころ(1415~1499)は三、四人が改悔を申していたが、天文年間(1532~1555)以来は「一度に五十人、百人が各々大声をあげて言っているので、まるで喧嘩のようである」と批判しています。
「喧嘩のようである」と記録があるということは、各々が違う言葉を発していたということです。
現在のように同じ文を出言していれば、喧嘩のようにはなりません。
つまり今日のように一同で「領解文」を出言するようになったのは、かなり時代が下ってからと考えられます。
こうして、蓮如上人によって本願寺の報恩講で行われるようになった改悔の儀礼は、長い歴史をもって今日まで伝えられています。
現在では本書の内容を親鸞聖人や阿弥陀如来の前で出言することによって、自らの領解に誤りのないことを確認するという形式で継承されています。