本尊は掛けやぶれ

『蓮如上人御一代記聞書』第五条には、蓮如上人の語録のなかでも特に有名な

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」(『註釈版聖典』p.1233)

という言葉が残されています。

このなか「聖教はよみやぶれ」というのは「紙がボロボロになってやぶれるほど繰り返し読みなさい」という意味でわかりやすいです。

一方で「本尊掛けやぶれ」についてはイメージができない人も多いのではないでしょうか。

まず、押さえておく必要があるのが、ここでいう本尊とは「軸装」です。


蓮如上人が授与された軸装の本尊には、阿弥陀さまの絵像や、「南無阿弥陀仏」の六字名号、「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命尽十方無礙光如来」などの名号がありました。その中、最も多く授与されたのが書写の六字名号でした。

これら軸装の本尊は、どこかに掛けて本尊とするものです。「本尊は掛けやぶれ」という言葉は、このことを前提として語っています。

それでは「掛けやぶれ」とあるのはどういうことでしょうか。なぜ本尊がやぶれるのでしょうか?

これは現在とは異なる当時の法座の形態に理由があります。当時は「小寄り講」といって、定期的に村の人々が当番の家に集まり、法座が開かれていました。つまり、当時の本尊は今のお寺やお仏壇のように常設されていたのではなく、法座が開かれるごとに掛けられていたのです。法座ごとに本尊を掛けるわけですから、法座が多いほど、それだけ本尊はやぶれやすくなるわけです。

『蓮如上人御一代記聞書』第二八五条に蓮如上人と門弟・善従(道西)のこんなエピソードが伝えられています。

あるとき、蓮如上人が善従に「以前、掛け軸にするために書いて渡した法語をどうしたか」と尋ねました。すると善従はここぞというばかりに「表装をして、箱に入れて大切にしまっております!」と答えました。

しかしそれを聞いた上人は「それはわけのわからないことをしたものだ」と諫め、「常に掛けて、法語通りの心持ちになりなさい」と述べられたのでした。

この蓮如上人のお示しは本尊についてもあてはまるでしょう。本尊とは箱に入れて宝物として保管するものではなく、掛けられてこそ意味があるのです。

「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」という言葉は、本尊が掛けやぶれるほど、そして聖教が読みやぶれるほどに法座を開き、信心を得て欲しい……そんな蓮如上人の願いが込められた言葉だったのです。

【参考文献】
『浄土真宗聖典 註釈版』
『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』
『季刊せいてん no.144』

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2025年07月29日