風鈴


浄土真宗は「なんまんだぶ」とお念仏を申すご宗旨です。
お念仏には様々な側面があるのですが、そのひとつに親鸞聖人が「本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)」とお示しくださった「仏さまの喚(よ)び声」というものがあります。

われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀仏
つれてゆくぞの 弥陀の喚び声

といわれるように、私が称(とな)えているお念仏ではあるけれども、それはそのまま私の身にはたらいて、私のいのちに宿る仏さまが「あなたを救う仏が、南無阿弥陀仏となってあなたのところへ届いてますよ。いつでも一緒だから安心してくださいね」と私に喚びかけてくださっているのだといいます。
ここでたとえ話をひとつ──。


この季節になると、風鈴の心地よい音色が耳に入ってくることがあります。
涼しげな響きがクーラーや扇風機の代用品とは、昔の人はとても風流というか、なんとも日本らしい風情を感じることろです。


当たり前ですが、風鈴は外身(本体)だけでは鳴りません。中に舌(ぜつ)という本体と接触して音がなる部品が必要です。
そして、舌に取り付けられた短冊が風に吹かれることで「チリーン」と涼しい響きを生むのです。


「なんまんだぶ」とお念仏が響くのは、それは私が単に称えているからではありません。

親鸞聖人は南無阿弥陀仏を「帰説(きさい)なり、説(せつ)の字は、税(さい)の音(こえ)なり」とご解釈くださっています。
“税”には“宿る”という意味があることから、阿弥陀如来という仏さまは「南無阿弥陀仏」と言葉のすがたとなって私のいのちの中に宿ってくださることが分かります。
そしてそれだけではなく、縁に触れて私の身体に響いてお念仏の声となって聞こえてくださるのです。


非常に無粋ではありますが、詳しく配当すると、

風鈴の外身・短冊=私
舌=宿っている仏さま
風=仏さまのはたらき・様々なご縁
音=お念仏

あくまで比喩ですが……。


さて、実はこの風鈴の外身と舌とが接触する部分(鳴り口)は、少しだけザラザラしているのをご存知でしょうか?
どうやらツルツルしていると、舌が滑ってしまって鳴らなくなってしまうのだそうです。


考えてみますと、「なんまんだぶ」というお念仏が私たちのいのちに強く響く時というのは、人生がツルツルと平面な順風満帆の時よりも、ザラザラとした苦難を迎えて深い悲しみや憂いに沈んでいる時のように思います。

今回はお念仏を申すということを、風鈴にたとえて考えてみました。

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2017年07月09日