研修旅行1

青年布教使の研修会で福井県を訪れました。


福井県あわら市にある吉崎別院(本願寺派)です。


文明3(1471)年4月、京都の大谷本願寺を比叡山の僧徒によって破壊された本願寺第8世法主の蓮如上人は、近江の金森や堅田、大津の各地を転々とした後に越前吉崎の地に辿り着きました。上人が57歳の時の決断です。


当時の吉崎は、上人が後に御文章の中で「年来虎狼の住みなれし山中」と記したように、虎や狼が住むと言われるほど荒れ果てた辺境の寒村でした。
しかし、三方を日本海と北潟湖に囲まれた丘陵地は水運の拠点として優れた条件を備え、同時に敵の侵入を防ぐ天然の要害でもありました。

この地が布教の拠点に選ばれた背景には、土地の領主であった興福寺大乗院の門跡である経覚と蓮如上人が親しい関係にあり、土地の譲渡を容易に進めることができた事情が大きく影響しています。上人は吉崎山の頂に坊舎を構え、ここを北陸における真宗教化の拠点と定めたのです。

上人が吉崎に到着すると、わずか3ヶ月の間に北陸一帯はもとより、遠く奥羽地方からも道俗男女が幾千万という数を知らず押し寄せる熱狂的な状況が生まれました。この現象は後に蓮入ブームと称されるようになります。


これを支えたのは、当時の宗教界の常識を打ち破る先見性を持った布教活動でした。上人は難しい仏教の教義を庶民が理解できるよう、平易な言葉で記した手紙形式の説法文である御文章を大量に作成して各地の門徒へ送り続けました。御文章の中では、阿弥陀仏の教えをよく聞き、救いを疑いなく信じる信心の決定が繰り返し勧められています。


また、朝夕の勤行に親鸞聖人の著した正信偈や和讃を依用し、これを木版印刷して普及させることで、大衆が宗教儀礼へ参加しやすい道を開きました。


さらに、地域ごとに門徒が集まって信心や教義を語り合う講という組織を構築したことも、教えを生活の隅々まで急速に浸透させる要因となりました。


以前は無住の山であった吉崎は、数年のうちにわが国でも有数の規模を誇る宗教都市へと劇的な変貌を遂げます。御坊の周辺には多屋と呼ばれる門徒の宿泊施設や民家が二百軒以上も建ち並び、一大寺内町が形成されました。町の中央には馬場大路というメインストリートが造られ、その両端には南大門と北大門が設置されました。
南大門から七曲がりを降りた場所には参詣者のための船着き場も整備され、商いを行う家も現れるなど、信仰の中心地としてだけでなく活気ある都市機能が備わっていました。


この繁栄の中で、信心深い嫁を鬼の面で驚かそうとした姑の顔に面が吸い付いて離れなくなる嫁おどしの肉付きの面といった伝説が生まれ、人々の間で語り継がれるようになりました。

また、上人が授与した名号が火災に遭った際に、灰が金色の阿弥陀如来の姿になったという焼け残りの名号の奇跡も、凡夫が仏になる尊さを説く物語として伝わっています。


上人の教えは、阿弥陀仏の力を信じて安心を得る他力の信心を基本としながら、現実の社会生活における規範も重視するものでした。当時蔓延していた、ただ念仏を唱えるだけで助かろうとする誤った信仰を厳しく批判し、正しい信心のあり方を明らかにしました。
他にも「和光同塵」の言葉に象徴されるように、日本の神々を仏の現れとして敬う本地垂迹の思想に基づき、他宗や地域の文化を否定しない多様性と寛容性を示しました。これは戦乱に明け暮れる民衆の心を潤すことにつながります。
さらに、信心を持ちつつも世間の法律や道理を守る王法為本の姿勢を説き、信仰と社会秩序の両立を目指しました。自らを罪悪深重の凡夫と称し、拝まれる存在であることを拒んで門徒と平等な立場で接した上人の姿勢も、多くの人々の心を引きつけました。


しかし、吉崎の急速な発展は周辺の武士勢力や他宗派との間に激しい軋轢を生じさせました。越前の守護である朝倉氏や甲斐氏、そして加賀の守護である富樫氏の内紛が、吉崎に集まる門徒集団の動向にも暗い影を落とし始めます。
文明6年3月には大規模な火災が発生して坊舎が焼失する悲劇に見舞われました。重ねて加賀の門徒が守護一族の争いに介入して一向一揆を引き起こすなど、社会情勢は一気に不安定化。上人は門徒の暴走を食い止めるために十か条の制戒を提示し、信心と世間の規範の両立を強く説きましたが、戦乱の渦を完全に鎮めることは困難を極めました。
武士同士の争いや一向一揆の蜂起に巻き込まれることを危惧した上人は、これ以上の争いを避けるために門を閉じ、参詣を禁じるなどの措置を講じました。
そして文明7年8月、滞在わずか4年余りで吉崎を退去する苦渋の決断を下したのです。上人は小浜や丹波、摂津を経て河内の出口へ移り、後に山科本願寺や石山本願寺を建立して、本願寺を日本最大の教団へと押し上げる基盤を築きました。上人が去った後の吉崎は、永正3年に朝倉氏が加賀一向一揆勢を退けた際、その坊舎を完全に破壊したことで一度は廃坊となりました。


吉崎御坊が再び信仰の地として復興したのは、江戸時代の中期である延享年間のことです。かつて山下道場があった場所に浄土真宗本願寺派の西別院が建立され、その翌年には吉崎山の麓に真宗大谷派の東別院が建立されました。


吉崎御坊のあった場所は1975年に国の史跡に指定され、現在は歴史公園として整備が進んでいます。


毎年4月には、京都の本山から上人の御影を徒歩で運ぶ伝統行事である御影道中が行われ、福井県あわら市と石川県加賀市の県境に跨るこの地には今も途絶えることなく多くの参詣者が訪れています。


吉崎御坊の歴史は、単なる一寺院の記録に留まらず、中世から近世へと至る日本の精神文化や社会構造の変遷を象徴する事象として、その重要性を現在まで語り続けています。

前の投稿

次の投稿

ブログ一覧

2026年03月04日