先日、青年布教使の研修会で福井県を訪れました。
吉崎御坊や吉崎別院以外にも「越前四箇本山」へお参りしました。
今回は「誠照寺」をご紹介します。
福井県鯖江市に位置する誠照寺は、真宗誠照寺派の本山として広く知られており、地元では「鯖江本山」という呼称で親しまれています。
この地は古くから日野川と北陸道が交差する交通の要所であり、誠照寺を中心とした寺領や門前町として発展を遂げてきました。現在は越前にある四つの真宗本山のひとつに数えられ、地域のランドマークとして様々な催事の拠点となっています。
誠照寺の歴史は、今から約800年前の承元の法難にまで遡ります。親鸞聖人が越後国へ流罪となる途上、越前国上野ヶ原を通りかかった際、現地の豪族である波多野景之の屋敷に輿車を止めて滞在したことが始まりです。景之は聖人が説く弥陀本願の教えに深く帰依して出家し、空然と名乗りました。
聖人が乗ってきた輿車にちなんで自身の屋敷を車の道場と呼び、念仏の道場としたのが教団の原点です。後に聖人の孫とされる如覚が門主に招かれ、後花園天皇から誠照寺という寺号を賜りました。
誠照寺の門徒は、正信偈や和讃を重んじて教えを広めたことから、歴史的に和讃門徒と呼ばれてきました。その勢力は越前や加賀にとどまらず、越後や美濃にまで拡大し、證誠寺や専照寺とともに越前三門徒の一角として大きな影響力を持ちました。
しかし、室町時代から戦国時代にかけては激動の渦に巻き込まれます。本願寺の蓮如上人が吉崎に滞在した頃から本願寺側とは距離を置くようになり、やがて一向一揆勢とは激しく敵対する関係に変わりました。一時は一揆勢の攻撃によって九代秀栄上人が命を落とすという悲劇も起きています。
戦国期の誠照寺は、自衛のために城郭寺院としての機能を備えていました。一向一揆に対抗するため、越前守護の朝倉氏や織田信長、柴田勝家といった当時の権力者と協力体制を築きました。しかし一五八三年の賤ヶ岳の戦いで柴田側に味方したことが原因となり、後に羽柴秀吉の報復を受けて伽藍を焼き払われ、一時的に壊滅的な被害を受けました。
江戸時代に入ると福井藩などの支援を受けて復興が進みます。特に幕末には摂家である二條家から法主を迎えるようになり、門跡寺院としての地位を確立しました。この縁により、現在の誠照寺派の寺紋には二条藤紋が使われています。
境内に立ち並ぶ建造物の多くは、江戸時代から明治時代にかけて再建されたものです。
御影堂は明治十年に完成した二十間四面の総欅造りで、福井県内でも最大級の木造建築物として威容を誇ります。廃仏毀釈という厳しい時代背景がありながら、門徒たちが岐阜の美濃地方や福井の池田から巨大な欅を運び込み、不退転の決意で建立しました。
阿弥陀堂には太田道灌の念持仏であったとされる閻浮提金手引阿弥陀如来立像が安置されており、毎年8月15日にのみその姿を拝むことができます。
また、四足門は鳥棲まずの門という別名を持ち、江戸時代の伝説的な彫刻家である左甚五郎の作と伝えられる精巧な彫刻が施されています。
誠照寺には、当時の女性門徒たちの強い信仰を物語る貴重な文化財も伝わっています。蓮の糸を用いて刺繍された一尊十二光佛藕糸曼荼羅や、女性の毛髪で南無阿弥陀仏の六字を綴った髪繍六字名号は、いずれも福井県の文化財に指定されています。
かつて他宗派から装飾や武装を批判された際、如導上人は「浄土の教えでは俗人は俗人のまま、女性は女性の姿のままで救われる」と説きました。これらの至宝は、その教えを信じて日常を生き抜いた女性たちの熱意が形になったものです。