研修旅行3

先日、青年布教使の研修会で福井県を訪れました。


今回は「證誠寺」をご紹介します。


浄土真宗の宗派の一つである真宗山元派は、福井県鯖江市横越町にある「山元山 護念院 證誠寺」を本山としています。


この宗派の歴史は鎌倉時代初期の承元元(1207)年に遡ります。


法然の門下であった親鸞聖人が念仏停止の弾圧によって越後国へ流罪となった際、その途上で越前国の山元の庄に滞在しました。聖人はこの地で浄土他力の教えを説き、これが真宗山元派の開山の基となりました。

その後、親鸞は関東での布教を経て京都へ戻りましたが、教えを受けた越前の門徒たちが再び親鸞の来訪を願いました。
当時すでに高齢であった親鸞は自ら赴く代わりに、自身の木像や直筆の名号を息子の善鸞に託し、代理として山元の庄へ遣わしました。
善鸞は越前において本願一実の法を説き、その後は諸国を巡る旅に出たため、嫡男である浄如がこの地に残りました。


第三世の浄如は、祖父である親鸞のそばで教えを受けて育ちました。親鸞が弘長2(1263)年に90歳で亡くなると、浄如は遺骨の一部を奉じて山元の庄へ帰り、本格的に教化活動を始めます。


浄如の活動は朝廷にも伝わり、嘉元2年には後二条天皇から山元山護念院證誠寺という勅額を賜り、勅願所としての地位を確立しました。しかし、その後の歴史は平坦ではありませんでした。


南北朝時代から室町時代にかけて、教団は内紛や外敵の攻撃にさらされます。至徳2年には如道の門人であった道性が寺院を創設したという説もあり、如道の死後に後継者が浄土宗へ改宗したことをきっかけに、三門徒派から独立する動きが強まりました。
第八世道性の時代である文明7年、證誠寺は大きな転換期を迎えます。当初の拠点であった山元の地が兵火にかかり、天台宗の寺院による攻撃を受けたため、道性は本拠地を現在地の横越へ移しました。この時期、勢力が弱まっていた證誠寺は真宗出雲路派の毫摂寺の傘下に入るなど、苦難の時代が続きます。
第九世の善充は明応8年に後土御門天皇に拝謁し、応仁の乱で荒廃した皇居の修理費を献上した功績から、真宗之源親鸞嫡家という称号と菊桐の紋章を授かりました。
しかし、戦国時代の動乱の中で本願寺派の一向一揆による攻撃を受け、門徒の離散を経験しました。このため、寺基を武生の村国へ移さざるを得ない状況に追い込まれ、長らく本拠地を離れることになりました。
江戸時代に入り、第十六世善応の代になると、福井藩主の支援を受けて再び横越の旧地に戻り、堂宇の復旧を果たしました。


この再興の歴史において重要な役割を担ったのが、第二十世法主となった善超です。善超は公家の西園寺家の流れを汲む小倉家の出身で、今出川家の猶子となった後に證誠寺に入りました。
善超が菊亭家の猶子でもあった縁から、證誠寺は菊亭家の紋章である三つ紅葉を寺紋として用いるようになりました。善超は東溟と号し、優れた文化人としても知られています。彼は歌会への参加や漫遊草稿、うの花日記といった著作の執筆を通じて地域の文化振興に寄与したため、中興の祖と仰がれています。


近代に入ると、明治政府の政策により一時的に浄土真宗本願寺派に統合されましたが、明治11年に真宗山元派として再び独立しました。明治19年には独自の宗制を定め、真宗十派の一つとしての体制を固めています。
昭和時代には、児童の火遊びが原因で御影堂や阿弥陀堂などの主要な建物が焼失するという悲劇に見舞われました。しかし、門徒の尽力により、昭和26年には御影堂が、昭和39年には阿弥陀堂が再建されました。


境内にある鐘楼堂は火災を免れた貴重な建物で、近隣の三里山から切り出した安山岩の土台の上に建つ重厚な造りです。
また、昭和56年には道路拡張工事に伴い境内地が削られることになり、歴史ある大欅の伐採や建物の移転が行われ、約4年の歳月をかけて現在の景観が整えられました。
現在の本尊である阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作と伝えられ、鯖江市の指定文化財になっています。


御影堂には親鸞の木像と歴代法主の御影が安置されており、地域の信仰の拠点として機能し続けています。


真宗山元派は所属寺院が全国に17か寺であり、真宗十派の中では規模が最も小さいものの、その多くが福井県に集中しており、地域に深く根ざした伝統を守っています。

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2026年03月10日