築地本願寺で研修会の講師として登壇しました。

講義の中で紹介する「智愚の毒」について調べていたところ、森田眞円和上の次の文章を見つけました。

現代の人々に西方浄土の教えを説くことは容易ではないとよくいわれます。浄土を西方と指し示すよりも、「宇宙の根源である」「生命の淵源である」等と表現した方が理解しやすいのではないかという意見もあるようです。
しかし、そうした考えには、浄土の教えに誤解をもたらす陥穽(かんせい)があるのではないでしょうか。
親鸞聖人のお言葉に「如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり」という言葉があります。この「智愚の毒」とは、どういう意味なのでしょうか?愚の毒は、理解できそうな気がするのですが、智がどうして毒になるのでしょうか?
このご文の前には
たとへば阿伽陀(あかだ)薬のよく一切の毒を滅するがごとし
とあります。
阿伽陀薬とは『不空羂索神変真言経(ふくうけんじゃくじんぺんしんごんきょう)』の「阿伽陀薬品」に説かれる万能薬のことで、毒虫・毒薬の毒を消し去り、種々の病を瞬く間に治する妙薬であり、十悪五逆や一切の災障を取り除く薬であると説かれています。
また『華厳経』では「阿伽陀薬の如く能く一切の煩悩の衆毒を除かん」等と数カ所に出され、
菩提心は阿伽陀薬の如し。よく無病にして永く安穏ならしむるが故に。菩提心は除毒薬の如し、よく貪愛の毒を消歇(しょうけつ)するが故に
と説かれ、菩提心が煩悩を除くことの譬えとなっています。
源空聖人はこの譬えを、菩提心ではなく、念仏を讃えるものとして『選択集』に示されます。
念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。余行はしからず。あるいは軽を滅して重を滅せざるあり。あるいは一を消して二を消さざるあり。念仏はしからず。軽重兼ね滅す、一切あまねく治す。たとへば阿伽陀薬のあまねく一切の病を治するがごとし。ゆゑに念仏をもつて王三昧となす
と述べられ、下品下生の五逆重罪を滅するのは念仏しかなく、重罪を滅するならば下品上生の十悪軽罪も滅するのは当然であって、軽罪も重罪もすべての罪を滅するものは念仏でしかないことの譬えとして阿伽陀薬が挙げられているのです。
『選択集』の引用では、下品下生に「かくの如き愚人」とあるように、十悪五逆という「愚の毒」を滅する意味で阿伽陀薬の譬えが出されています。これは『不空羂索神変真言経』で「十悪五逆や一切の災障」と説かれていることや『華厳経』で「一切の衆毒」「貧愛の毒」と示されるものと同じ使い方であるといえます。
しかし親鸞聖人は『選択集』を受けながらも、「愚の毒」に「智の毒」を付け加え「智愚の毒」と述べられているのです。そこに親鸞聖人の何らかの意図を窺うことができます。
存覚上人の『六要鈔』では、この智を小智・邪智とし「還って謬解(びゅうげ)を生じて自ら往生を障(さ)ふ」ような毒を持っていると解釈されています。
自らの勝手な知恵や理解を拠り処にすることは、謬解を生じて往生の障りとなるといわれているのです。つまり、仏のはたらきを拠り処とせず、自らの知恵や理解を頼りとして往生していこうとする自力の毒を述べたものと考えることができます。
愚の毒も智の毒も、人間の自己中心性によって、まき散らされる毒であります。智の毒は自らを誇るだけに毒に気づきにくく、より始末が悪いともいえます。悪逆によってもたらされる毒だけではなく、自らの知恵を誇ることによってもたらされる毒を付け加えられているところに、親鸞聖人の面目躍如たるものがあるといえるのではないでしょうか。
経典に説かれている浄土や阿弥陀仏の表現よりも「浄土は宇宙の根源である」「如来は生命の淵源」といった表現の方が、何となく理解できたかのように思うのも、現代の我々の持つ智の毒のように感じます。
人間の智愚を超えた誓願であるからこそ、智愚の毒を滅することができ、不可思議不可称不可説の信楽(しんぎょう)が恵まれるのです。「思いはかることも、たたえ尽くすことも、説き尽くすこともできない」と述べられるところに、人間中心のものの見方やあり方が否定されていることが知らされるのです。
七百五十回大遠忌法要をお迎えするにあたり、「西方不可思議尊」と示された親鸞聖人のお心を今一度味わってみたいと思います。