有名人

先日、法事にお参りくださった方から「寺尾香信さんをご存知ですか?」と聞かれました。


「すみません、存じ上げません。どなたでしょうか?」と返答したところ「DXTEENというアイドルグループのメンバーで、広島県の浄土真宗のお寺出身みたいなんですよ」と教えていただきました。


最近はアイドルも多種多様ですから「お寺出身」というのも他と差別化できる個性のひとつになるのかもしれません。


浄土真宗本願寺派の僧侶は約30000人いるそうですので、さまざまなバックグラウンドをお持ちの方がいらっしゃいます。


個人的には同じ宗派の僧侶というだけで応援したくなってしまいます。


兵庫県神戸市照願寺の藤岡寛生ご住職に関する次のような記事も見つけました。

「巨人以外なら、龍谷大に行ってお坊さんになります」

前代未聞の宣言だった。1984年のドラフト会議前、夏の兵庫大会で3試合連続ホーマーを放った三田学園の藤岡寛生内野手は、実家の寺を継ぐことも念頭に置きながらジャイアンツを逆指名した。

「2年生の時から伊藤菊雄スカウトが毎月1、2回、高校のグラウンドに通ってくださいました。練習試合でふと横を見ると、隣に座っていて、また来てるなあと。『順位はわからないけど、必ず獲るから入団してほしい』と熱心に口説いてくれました」

近鉄は1年の時から藤岡をマークしていたが、子供の頃から巨人ファンの少年にとって、球界の盟主からの誘いはこの上ない喜びだった。淡口憲治(三田学園)、小林繁(全大丸)、西本聖(松山商)などを発掘していた伊藤は背筋力220キロ、遠投115メートルを誇る藤岡の素質に惚れ込み、「他球団のスカウトには会うな」と忠告した。

「そういうわけにもいかないんですよ。事前の連絡なしに学校に訪問されて、家にも突然現れますから。『今日は兵庫に一泊する。ゆっくり話したい』と迫られるんです」

ドラフトが近づくにつれ、西武と阪急を除く10球団が大型ショートの元を訪れた。伊藤はいくつかの選択肢を挙げた。その中に、「巨人以外ならお坊さんになるという方向で行ったらどうかな」という提案もあった。藤岡はこのフレーズを使うと決め、他球団に断りを入れた。肩を落として帰路に向かうチームもあったが、広島の木庭教スカウトは激昂した。

木庭:君、逆指名してるけど、もしジャイアンツで活躍できなくて他の球団に行きたいと言っても、どこも獲ってくれへんぞ。ええ? それでもええんか?

藤岡:ああ、もう別にいいです。

木庭:このまま巨人に入ったら、頭狙われるかもしれんぞ。

「年上が絶対」という風潮が蔓延っていた昭和59年、18歳の高校生は百戦錬磨の58歳に正面から立ち向かっていた。

「もう、そう答える以外になかった。怖い人やな思いながらね(笑)。脅されているような感覚でした。当時はハチャメチャな人が多かったですよ。今思えば、高い評価の裏返しですから、うれしいですけどね」

ドラフト当日、藤岡は悶々と過ごしていた。巨人はアマチュアNo.1の呼び声高い竹田光訓投手(明治大学)を1位指名。3球団競合の末に抽選で外れると、上田和明内野手(慶應大学)との交渉権を獲得した。

「1位が上田さんと聞いて、同じショートを2人続けて獲るのかな……と考えていたら、5時間目の古文の授業中、校長先生が『藤岡君、巨人やぞ!』と教室に伝えにきてくれたんです。甲子園に出てない高校生がジャイアンツの2位ですから、クラスも大騒ぎになったし、本当に嬉しかったですね」

巨人入団の喜びは束の間で終わる。ポストシーズンが確立されていなかった昭和の頃、ジャイアンツは1月下旬に多摩川でキャンプを始動させていた。初日、高校の先輩である淡口憲治が藤岡に「バット振ってみろ」と命じた。力一杯スイングをすると、「遅い! おまえ、何をしてきたんだ」と叱られた。

「全然練習せずにキャンプに入りました。正直、巨人に入団して浮かれていた。それを淡口さんにすぐ見抜かれてね。会うたびに、『プロはそんなに甘いもんじゃない』とお説教を受けました」

午前中の二軍練習が終わって片付けをしながら、午後の一軍練習に目をやると、江川卓がキャッチボールをしていた。

「ボールが糸を引くようにミットに吸い込まれていく。動き自体は力強いわけではないですし、既に肩の状態があまり良くなかったはずなのに、『なんだ、これは……』と衝撃を受けました」

(中略)

公式戦初出場はチーム13試合目の阪神戦。大量リードを許した8回に代打で登場するも、仲田幸司に三振。1週間後のヤクルト戦でプロ初ヒットを放つも、5月7日に登録を抹消された。皮肉にも翌々日、岡崎が右足太もも裏を痛める。一軍帯同が続いていれば、代わりに藤岡がスタメンに抜擢されたかもしれない。

運命の歯車は噛み合わなかった。オフには同じ内野手の元木大介がドラフト1位で入団。煌めく新星に押し出されるように、ファームでも藤岡の出番は減っていく。そして、長嶋茂雄監督の復帰で沸く92年オフ、藤岡はジャイアンツ球場のスタッフルームに呼ばれる。ドアを開けると球団副代表とマネージャーが座っていた。

「戦力外通告でした。シーズン中から『ああ、来年ないな』とわかりますよ。試合に出る機会がだんだん減っていきますからね。家に帰って妻に『今日、クビって言われたよ』と伝えても、別に暗い雰囲気にはならなかったですね」

藤岡は日本ハムの入団テストを受けるため、鴨川の秋季キャンプに直行する。だが、突然の出来事だったため、宿舎に空きがない。同年に日本ハムへ移籍して14勝を挙げた金石昭人の1人部屋に潜り込んだ。

「金石さんはオーバーホールで来ていたんですよ。挨拶するなり、『テスト頑張れよ。おお、飯食いに行くぞ』って。もう22時を超えていましたから、『……今からですか?』と思わず聞き返してしまいました。巨人なら門限破りですけど、日本ハムでは関係なかった。『おお、飲め飲め』と勧められるままに酒を飲んでいたら、二日酔いになってしまいました。テスト期間中の1週間毎日、金石さんのお供をしました」

球団常務から復帰した大沢啓二監督は、藤岡の肩に惚れ込んで獲得。93年6月16日のロッテ戦(千葉マリン)では同点の10回裏1死満塁、ウインタースに代わって突然、経験のないレフトに就かせた。すると、4番のホールが左翼に打ち上げる。藤岡からショートの広瀬哲朗、キャッチャーの田村藤夫と渡って併殺完成。土壇場で引き分けに持ち込んだ。

「外野の練習なんてしてないですからね。いきなり呼ばれて驚きましたよ。ただ、(打者が)こっち狙ってるなとわかったので、来る予感はあったんです」

93年は控えの内野手としてチームに貢献したが、94年8月にイースタンの西武戦での守備中に走者と激突して左ほお骨を陥没骨折。視力が低下し、物が二重に見えるようになってしまった。翌年オフ、多摩川の選手寮に呼ばれ、マネージャーから「来季、契約の予定はない。他の球団に行くか?」と告げられる。限界を感じていた藤岡は「いや、もういいです。野球を辞めます」と身を引いた。

それでも、僧侶になって実家の寺を継ぐ気は起こらなかった。

引退するとすぐ、第二電電(現・KDDI)関連の電設会社で仕事を始めた。ちょうど携帯電話やPHSが普及し始めた頃で、基地局を作るため、各家庭に飛び込み営業をした。

「社長が知り合いで、面倒見てくれました。朝、会社に行くと、地図を渡されて『この地域にアンテナを何本か立てたいから、回ってくれ』と指示されました。契約を結構取れましたし、楽しかったですね」

休日にゴルフに行くたびに、社長は藤岡の飛距離に驚いた。「プロでもこんなに飛ばないよ。ゴルファーになれば?」と勧められ、真剣にその道を志した。

34歳の時、転機が訪れる。

「父親が倒れたんです。病室で寝ている姿を見たら、いつまでも自分の夢を追いかけてはいけないと感じました。今までずっと好きなことをしてきて、あまりお寺のことを考えていなかった。自然と、実家を継がなければいけないという気持ちになりました」

一念発起し、僧侶になるため通信教育を2年間受講。毎月の課題をこなし、年に数回のスクーリングでお経や作法の実演試験をクリア。修行を受けるための資格を得た。

「最後は京都の(本願寺)西山別院で2週間の修行を受けました。朝4時半起きで掃除から始まり、講義、お経や御法話の練習などを繰り返しました」

10個以上の課題に合格。03年2月、僧侶になった。修行から帰ってきて2日後、夜更けに照願寺の電話が鳴る。「母が亡くなったので、お経をあげに来てほしい」という依頼だった。住職の父は「行ってこい」と静かに呟いた。23時頃、家に到着すると、仏壇の前に高齢女性の遺体が安置されていた。横には、涙で目の腫れた娘がたった一人で佇んでいた。

「ハンカチを取って、ご遺体の顔を確認すると、私の体が震え出しました。いざ正座をしても、手に持っている経本は左右に揺れるし、足もブルブルしている。5万6000人の東京ドームで打席に入った時と比べものにならないくらい緊張しました」

2年後の05年、神戸を走るJR福知山線で脱線事故が起こる。犠牲者の一人に女子大生がいた。法要のため、仏壇の前で正座すると、阪神選手の直筆サインなどが目に入った。聞いてみると、父親は片手にハンカチを持ちながら、「娘は阪神ファンで、甲子園で優勝する時に見に行きたいとよく話していたんです」と涙を堪えた。この年、阪神は中日と激しく首位を争い、9月14日にマジック13を点灯させた。

「何かできないかなと思いまして。同期の藤本健治が巨人の広報でしたから、胴上げのありそうな日の切符を頼みました」

プラチナチケットを渡すと、遺族は「なんで手に入ったんですか?」と驚きの表情を浮かべた。その時、初めて自分は元プロ野球選手だと明かした。

マジック1で迎えた9月29日、父は娘の写真を抱えながら、甲子園に赴いた。初回、金本知憲のタイムリーで先制した阪神は巨人の内海哲也を4回KOに追い込み、投げては先発・下柳剛が6回無失点。7回からは藤川球児、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之のJFKで締め括って、岡田彰布監督が宙に舞った。

「選手の頃は、他人を蹴落としてでも上を目指して、自分さえ良ければいいという感覚でプレーしていました。そんな人間が今、こんな仕事をしている。自分でも驚きます」

僧侶になった時、「やっとその気になってくれたか」と泣いた父親の後を継ぎ、2016年10月からは7代目の住職に。少子高齢化や核家族化の影響で、寺の維持も楽ではない。

「住職の試験では、より専門的なお務めの作法だけでなく、お寺の経営の仕方も学びました。寺院費をいただける門徒の戸数が多いに越したことはない。でも、少なくても維持する方法を知っておかないと、お寺は運営できない。私の代で辞めるわけにはいかないですから」

世の中は諸行無常である。藤岡の人生も、絶え間なく変化し続けてきた。その間、「もしケガをしなければ……」「もし二軍落ちのタイミングがズレていれば……」と空想に耽ることはなかったのか。

「結局、力がなかった。それだけのことなんです。巨人時代から自分なりに練習に励んできましたし、日本ハムに拾って頂いてチャンスももらった。ケガは突然やってくるし、予測できない。何事も受け入れなければ、仕方ない。だから、悔いはありません」

江戸時代から先祖代々受け継がれてきた寺院で育ち、僧侶になってから600を超える葬儀を勤めてきた。幾度も、死という人生最大の悲しみに直面する中で、藤岡は悟った。往時を悔やまず、日々の仕事に懸命に向かう。その姿勢こそが人の生きる道である、と。(『Number Web』より)

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2025年02月05日