一枚起請文⑨

【念仏往生と三心・四修②】

前回は「三心や四修は本願に信順して、ただ念仏申す人の上に自ずから具わるものである」とのお示しについて、特に念仏者の信心である三心を取り上げました。

ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。
念仏者は三心や四修を具えねばならないと申しますのも、これらみな、南無阿弥陀仏の念仏によって必ず往生させていただくと思いさだめて念仏申す人の上に、おのずから具わるものなのです。

四修とは恭敬修(慇重修)・無余修・無間修・長時修の4種類の念仏の修し方をいい、『往生礼讃』(『七祖』p.656)によれば、それぞれ次のような内容です。(『七祖』p.1483)

①恭敬修(くぎょうしゅ) 阿弥陀仏とその聖衆を恭敬礼拝すること。
②無余修(むよしゅ)   専ら仏の名を称え他の行いを雑えないこと。
③無間修(むけんしゅ)  行を間断させず、また煩悩をまじえないこと。
④長時修(じょうじしゅ) 恭敬修・無余修・無間修を命終るまで修めつづけること。

これらを少し大まかにまとめますと、四修とは要するに「ただ念仏申す」ことを「いつも続ける」ことが念仏の正しい修し方だということです。
それはまた、念仏者のあるべき生き方を教えているものとも言えるでしょう。

しかもこうした念仏の修し方・生き方が「私たちに課せられた義務です。守りなさい」ということではなく、本願を信ずるところにおのずから具わるものであると言われます。
「ただ念仏申せ」という阿弥陀仏の願いにしたがうならば、おのずから「ただ念仏申す」日々が過ごされていくということです。


法然聖人は「信心があれば念仏は必要ない」「一声の念仏でも救われるのだからもう念仏する必要はない」などの主張を、邪見に他ならないと厳しく批判されています。
そして、ただ一声の念仏でも往生すると信じて、しかも生涯念仏を申すべきであると、信心だけでなく念仏の相続の大切さを言われます。

信をば一念にむまるととりて、行をば一形はげむべし(「禅勝房にしめす御詞」『真聖全4』p.633)


それでは「一声の念仏でも往生すると信じながら、しかも称え続けることの目的は何なのか。なぜ称え続けねばならないのか」と当然疑問となるところです。

法然聖人はこの種の問いに対して、理屈をもって答えてはおられません。『選択集』にも明確な回答となるお言葉はありません。

しかしそれは「称え続けなければ、何かの目的が叶わなくなってしまうから念仏する」という考えではないことを物語っているのではないでしょうか。


結局のところ「念仏申せと如来が勧められているから(選択本願の行であるから)念仏を申すのだ」というのが、法然聖人の据わりのように思われます。
それはまた「念仏申すことが人生で最も尊い生き方であるから念仏を申すのだ」とも表すことができるでしょう。

ただし例外的と申しますか、和語の語録では「何のために念仏申すのか」の問いに対する一つの回答と見られるご教示があります。

決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて、精進の念仏のせらるるなり。また信心のえての上には、はげまざるに念仏はまふさるべき也(「三機分別」『真聖全4』p.163)

ここでは報恩の思いから念仏申されていくのが、信心をえた念仏者というものであるといわれています。
つまり「念仏申すことは仏恩報謝のため」というお考えを、親鸞聖人と同じく法然聖人も持っておられたことが分かります。


なおこの場合もなぜお念仏申すことが仏恩報謝になるのかといえば、法然聖人の教学の上では、やはり「念仏申せと阿弥陀仏が勧められているから(選択本願の行であるから)」というのがその根本の理由であると考えるべきでしょう。
阿弥陀仏は、私たちが阿弥陀仏の願いの通りただ念仏申して浄土への道を歩むことを何よりも喜ばれるのです。

いずれにせよ、念仏申す生活は阿弥陀仏の願心を頂いていくところにおのずから開かれていくものであり、本願を信ずる心こそ肝要であるというのが、ここでの法然聖人のお示しということになります。

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2025年05月27日