先日、広島県のお寺の勉強会(峠雪安居)に参加したときのことです。
一緒に現地参加をした東京・隆照寺の小柴隆幸ご住職が次のような法話をされていました。
善導大師の『観経疏』「序分義」には「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す」と述べられてあります。
つまり私たちがお経の言葉に触れていくことは、鏡を見るように自らの本当の姿を知らされるということです。
しかし私たち浄土真宗においては、お経の言葉に触れていくということは私を救う阿弥陀如来に出遇うということなのです。
小柴先生の味わいを聞き、運転中にラジオで聞いたエピソードを思い出しました。その日は「リスナーの皆さんの心温まる家族の話」を募集していました。
1歳6ヶ月の娘は段々と歩くことにも慣れてきて、なかなか目が離せません。そんな彼女のお気に入りの場所が私が嫁入り道具として我が家に持ってきた大きめの化粧台です。
私が化粧をしていると、私と化粧台の間に割り込み、私の膝の上に座って化粧道具でイタズラ始めるのでいつも困っています。
ただ、それだけではなく娘は大きな三面鏡に映るさまざまな角度の自分自身と私の姿を見て「ママ、ママ、ママ」とそれぞれの鏡面に嬉しそうに語り掛けるのです。
こうした娘のすがたを見ているとなんとも微笑ましく、化粧が進まず出発時間が遅れることも許せてしまいます。
この女の子は鏡を通じて「自分」ではなく「自分を膝の上に抱く母親の姿」を見ていたようです。
浄土真宗のお経には「阿弥陀如来が南無阿弥陀仏で私を救う」と説かれています。
お経の言葉は「鏡」に喩えられます。しかしそのお経という鏡を通じて映し出されるのは、私たちを「決して見捨てない」と抱きとってくださる阿弥陀如来のすがたでありました。