大乗荘厳経論④

【根拠となる仏説観の伝統(2)】

前回確認したような仏説観は、さまざまな仏説を生み出す根拠となります。同時に仏説の増広は論争の種となりました。

『涅槃経』「四大教法」の一節は、すでに原始経典の段階で仏説についての論争があったことを示唆します。
さらに部派分裂以後は各部派が伝承した原始経典に相違が生じ、自派に存在しない他部派の経典を仏説と認めないことがしばしばありました。
また、部派で編纂された「論」については、これを仏説と主張する説一切有部とそれに反対する者たちとの間で論争が起こりました(阿毘達磨仏説・非仏説論)。仏説・非仏説の論争は大乗だけではなかったのです。

インドの仏教は時代状況に応じて多くの仏説をもたらし、論争をしばしば起こしました。
しかし仏説の増広と論争には「仏教とは何か」という真摯な問いが常に伴っていたことを見落としてはなりません。

では「善く説かれた教説とは何か」という問いが深められるうちに「苦しみの終わり」や「涅槃の達成」といった仏教の究極的な利益をもたらすものが「善く説かれた教説」──つまり仏説であるという見解が注目されていきます。これらの見解は原始経典に兆しが生じていたと考えられており、以後は部派仏教から大乗仏教まで一貫して重視し続けられます。

『大乗荘厳経論』の「大乗は仏のさとりをもたらすものであるから仏説である」という主張は、そうした在来の仏説観に沿いつつ「仏の最高のさとりをもたらすのは原始経典を依りどころとする部派仏教ではなく大乗仏教である」との表明を述べたものです。


本来「仏説」とは「仏(お釈迦さま)の直説」だけではなく「仏(お釈迦さま)の教えとして内容が相応しい教説、つまり涅槃やさとりといった仏教の究極的な利益をもたらす教説」も意味するものである……この理解が江戸時代から現代まで日本の「大乗仏説・非仏説」の論争に欠けています。
そして生死流転する凡夫にとっては「仏説」たる経典は「真に利益をもたらすべく仏から与えられた言葉」として受け取らなければなりません。仏説の意味を考えるうえではこうした視点が大切です。

〈参考『季刊せいてん no.120』「仏説」とは何か─古代インドの大乗仏説論に学ぶ(藤田 祥道)〉

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2025年07月01日