水に溺れたる者①

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

諸仏の大いなる慈悲の心とは、苦しみ悩む人に焦点を合わせてはたらく心です。その心は偏に煩悩の濁流に巻き込まれて、苦しみ悩んでいる人を憐れみを念じ、安らかなる涅槃の浄土へ迎え取ろうとはたらき続けています。たとえば、川の岸辺で遊んでいる子供よりも、濁流に落ち込み、今にも溺れ死にそうになっている子供を優先して救うようなものです。

溺れている人を救うのは、溺れている人のそれまでの功績に対するご褒美ではありません。危機に瀕している「いのち」の痛みに対する共感が原動力になっていることを表わしています。そして溺れている者を救うときには、救われる者の老若男女を簡(えら)ばず、社会的な地位も貧富の差も、国籍の違いも、宗教の違いも一切問いません。ひたすら危機に直面している「いのち」を救おうとする平等の慈悲のはたらきであるということが表わされています。

平等の救いとは人種や国籍の違い、性別、貧富の差を問わずに救済することを意味しています。「いのち」の平等性を見据えて救済活動することを平等の救いというのです。「いのち」の平等性を見据えているからこそ、具体的な救済活動としては、危険度に応じて救いに優先順位をたてねばならないのです。そうしなければ、急いで救うべき者を見殺しにしてしまうからです。善導大師が、同じ大悲の救いの対象であっても、現に「いのち」を失いそうになっている「水に溺れたる人」と、さしあたって危険が迫っていない「岸上の者」とを区別されたのはそのゆえです。

「水に溺れたる者」は凡夫、「岸上の者」は聖者を表しています。 十方の衆生の中には、すでに一大阿僧祇劫(無数劫)という、長時にわたって仏道修行を積み、愛憎の煩悩を断ち切って、真如の理を部分的に覚っている初地以上の菩薩もいます。それを聖者といいます。

聖者は、生死を流転する因である煩悩を断ち切っていますから輪廻することはありません。しかしまだ自己と世界のあるがままの姿を(真如実相)を完全に悟る智慧は獲得していません。 だからさらに二大阿僧祇劫という長時にわたる修行を続けていかねば仏陀にはなれません。その意味で聖者も、もし速やかにさとりを完成しようとするならば、阿弥陀仏の本願に帰依して往生しなければなりません。しかしさしあたってすぐに救わなければ取り返しのつかない状態になるというような心配はありません。それを「岸上の人」に譬えたのです。

それに対して「水に溺れたる者」とは、煩悩悪業に溺れて今にも溺死しそうな状況にある凡夫 のことです。そして浄土の教えは、そのような凡夫を対象として説かれた教えであって、『観経』 の九品段は、上品上生から、下品下生に至るまで、すべて凡夫の往生を顕わされているというの が、善導大師の『観経』観であり、浄土教観だったのです。

だから大師は「玄義分」の随所に「如来この十六観の法(定善と散善)を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせず」とか、「ただこの『観経』 は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず」と言われているのです。すなわち浄土教は、ある程度の「さとり」の境地に到達しているわずかな聖者の救いを目的としている教えではなく、現に悲歎の叫びを上げている無数の凡夫の悲しみに応じる大悲の教えだったのです。これがやがて悪人正機説となるのです。

阿弥陀仏の慈悲は凡夫であれ聖者であれ、全く分け隔てなく包摂していかれます。しかし煩悩悪業の病が重く、苦しみの深い凡夫の救いに精魂を傾けていかれるのが大悲者としての阿弥陀仏の救済の特質だったのです。そのことを「水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし(急須偏救)」といわれたのです。これによって阿弥陀仏の心を古来「急救(きゅうぐ)大悲」「救急(くきゅう)の大悲」と呼んできたのです。(続く

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2025年07月08日