御朱印のQ&A

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Q. 御朱印って何ですか?

A. 御朱印とは、神社・仏閣を参拝された方に対して授与される、台紙に押印された朱色の印影、及び印章(ハンコ)そのもののことです。記念スタンプではないので、一般的には僧侶・神職・氏子が台紙に寺社名や参拝日を墨書きで記した上から判を押します。この墨書き部分も含めて御朱印といいます。

▲大連寺(京都市左京区:浄土宗)の御朱印

御朱印を受ける台紙には多くの種類がありますが、折れ本と和綴じのものを「御朱印帳」と呼びます。御朱印帳そのものは仏具店や神具点だけでなく、文房具店や書店でも取り扱っています。
オリジナルの御朱印帳を用意しているお寺や神社もあり、「御朱印」と併せて「御朱印帳」を集める人もいるそうです。

▲豊川稲荷(東京都赤坂)の御朱印帳

御朱印の起源は諸説あるようですが、元々は自分で書写したお経(写経)をお寺に納めた時にもらえる受領印であったというのが有力です。そのことから、御朱印のことを「納経印」ともいいますし、四国八十八ヶ所巡りでは御朱印のことを「お納経」といいます。

現在でも写経を納めたり読経をしないと御朱印がもらえないお寺は残っています。しかし、ほとんどのお寺が参拝しただけの方にも広く授与をするようになりました。値段は大体どこも300円が相場(?)だそうです。

貰った御朱印は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。手元にある仏事の本では、

御朱印とは、仏さまに敬虔な気持ちで手をあわせ、仏さまと結縁(けちえん)したことの証しであり、「お守り」のように大切にすべきものです。(曹洞宗)
宝印(御朱印)はご本尊の分身をいただくことと同じ功徳がありますので、お守りとして大切に捧持してください。(中略)地域によっては納経帳を持っている方が亡くなった時には、納経帳を棺のなかい納めて、極楽往生を念じる風習があります。(浄土宗)

と書いてあるので、“お守り”として大切にするようです。

この記事を書くにあたって、各宗派の仏事関係の本を読みながら調べたのですが、必ずといっていいほど

「スタンプラリーではありません」

の文面があります。きっと御朱印を置いているお寺側も、いろいろな対応でご苦労されているのでしょう。
日蓮宗の本では、

日蓮宗のお寺では、真ん中に「南無妙法蓮華経」のお題目を記し、(中略)ですから、御朱印を集める「御朱印帳」のことを、日蓮宗では「御首題帳(ごしゅだいちょう)」などと呼んでいます。
御朱印は単なるスタンプではなく、信仰のために巡礼した証しですので、他宗派の寺社と一緒の御朱印帳はおすすめできません。日蓮宗信徒の方は日蓮宗専用のものを用意しましょう。

と、釘が刺されています。

(参考「仏事Q&A」他)

 

Q. 浄土真宗で御朱印は?

A. 行っておりません(※)

御朱印は、そもそも「書写したお経(写経)を、お寺に納めた時にもらえる受領印」でありました。お経を納めることを「納経」というのですが、何のために納経するのでしょう?
『岩波仏教辞典』の「納経」の項目には次のようにあります。

現世・来世の福徳や死者の追善のため経典を書写して寺社・霊場に納めること。インド以来行われてきた経典を土中に埋める埋経(まいきょう)の風を受けて、日本でも平安時代後期以降、如法経(にょほうぎょう)納経が盛行し、藤原道長の金峰山山頂埋経や、平家一族の厳島神社納経(平家納経)はその一例。(後略)

つまり、「写経をお寺に納めたパワー(功徳)で自分や亡くなった人を成仏させよう」というのが納経の本来の意味です。ここが浄土真宗の教義的に引っかかるのです。

解説には2つの方法があります。
1つは「浄土真宗は阿弥陀仏のはたらきによって救われていく教えであるから、追善のために何かをしなければ死者が迷うと考える必要がない」というもの。

もう1つは、「本当の仏教の善とは、自我を離れ見返りを求めずに行うものだから、煩悩を持つ私の行動では善とはならず意味がないため」というもの。
「自分や死んだ家族の幸せを願ってはいけないのですか?」と疑問に感じるかも知れません。願うだけならいいのですが、「自らの行動によって善の功徳が生まれる」という考えは、裏を返すと「私の行動は正しいから必ず見返りがある」という自分全肯定思考の発露です。ここに危険信号を出したのが親鸞聖人です。

もう少し詳しい教義的な説明は法話ページに譲りますが、浄土真宗のお寺が御朱印を行っていないのは、「本来の御朱印の意味(追善供養)を考えた時に必要がないし、意味がないものだから」といったところです。

ちなみに浄土真宗の大谷派で配られている教化リーフレット『朱印をしない理由』では、

そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も 決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。
逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。

このような説明がされています。御朱印を集めている人は、御朱印を集めることが目的であるから、御朱印を手に入れたらもう来ない。すると、本来のお寺の役割である「教えに出遇う」が果たされない……うーん、そう言い切っていいのでしょうか。

(※)

ここからは個人的な見解も混じりますが、そもそも「善根功徳を積む」「追善供養」を目的に御朱印集めをしている人はどれほどいるのでしょうか。築地本願寺での参拝者対応や御朱印を行っている寺社仏閣で出会った人は、皆さん御朱印コレクターやお寺巡りが趣味の方でした。
そうした人たちに少しでもお寺へ足を運んで貰うチャンスならば、利用できるものは利用してしまえばいいのに……という考え方もできます。

その反面、御朱印はお寺側から提供するものなので、そこに明らかな教義的な齟齬があってはいけないという考え方も非常によくわかります。

【とりあえずまずはお寺に来てもらうために色々やろう派】VS【そうかも知れないけど教えは守ろう派】

というのは、たまに見られる構図です。

京都の西本願寺や東本願寺、東京の築地本願寺では御朱印の代わりに「参拝スタンプ」が用意されています。しかし、マイ御朱印帳に押していく人はほとんどいないとのこと。こだわりがあるのでしょう。
確かに渋いデザインの御朱印や、美しい墨書きを見ると魅力を感じます。ついつい集めたくなってしまうのも分かる気がします。

ここまで御朱印の是非について書いてきましたが、実は浄土真宗のお寺でも御朱印を行っているお寺はあります。というか昔は宗派関係なくどこもやっていたようです。

私が自分で行って驚いたのは浅草にある東本願寺(浄土真宗東本願寺派の本山:大谷派から独立)でした。受付で理由を聞いたら「お寺に来るきっかけになれば」とのこと。

稱名寺にも去年の秋に、「御朱印やってませんか?」という方がいらっしゃったことがあります。

「うちのお寺ではやってないんですが……、再来週あるこのお寺の報恩講法要にお参りしてくれたら特別に書きますよ」

と、我ながら良い交換条件を出しましたが、法要には来てくれませんでした。

2017年01月28日