浄土真宗のお寺である稱名寺の本堂には、阿弥陀如来の木像がご安置されています。
『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』というお経の中では、このお立ちすがたの仏さまについて、「立撮即行(りっさつそくぎょう)」と説かれています。それぞれ、
「立」→阿弥陀如来は立ち上がって、私のもとに駆け付けてくださる。
「撮」→つまむ・とる・とらえるの意味。私を抱きかかえてくださる。
「即行」→私をそのままお浄土へと連れ帰る。
と、そのおこころをいただきます。
この言葉を中国の善導大師という高僧は、以下のように解釈しています。
もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。〈『観経疏』「定善義」より〉
【私訳】もし阿弥陀如来が足を挙げて迷いに沈む私を救わなければ、この苦しみの連鎖によって繋ぎ止められた牢屋のような世界から逃れることはできません。この道理の故に、阿弥陀如来は「立撮即行」の仏さまなのです。座って私が向かい至るのを待っている仏さまではありません。
小さな子どもが危ないところにいる時に、危険を察知した親は立ち上がって真っ先に飛んでいきます。
阿弥陀如来もまた、苦しみ多き世界に沈む私をよくよくご存知です。だからこそ、“南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)”と言葉のすがたとなってこの世界へお越しになり、私を抱きとってくださる仏さまとなられました。
つまり、お立ちすがたには仏さまの慈しみのはたらきそのものが表れているということです。
このおこころを少し味わった東京ガスのCMを紹介します(動画)。
主人公は就職活動中の女子大生。
不採用通知が届くたびに、自分が世界中から否定されているような気分に。
母親の用意した夕飯に手をつけることができなくなるほどに余裕はなくなる。
順調な周りの様子にさらに焦りと不安は募るばかり。
そんな中で、最終面接まで進んだ会社が。
「今回は順調だよ。今日は家で夕食を食べられるよ」と連絡を受けて喜ぶ母親。
ケーキを買って期待を胸に家路へ着く主人公。
しかし、家に入る直前に届いた結果は不採用。
帰ることができず、公園のブランコで鬱々としていると、
「やっぱり、ここだ」
そこには母親が。
安堵心から声をあげて泣く主人公。
そのあと家に帰って東京ガスのコンロで作った美味しいご飯を食べ、支えを得て気力を取り戻した主人公が再び就職活動に臨む……というCMです。
CMですから、どこまでいってもお涙頂戴の作り物の感動かも知れません。
それでもシンプルな親子愛が描かれていて私は良いなぁと思いました。
家へ入ることができず、行き場を失って公園で落ち込んでいる主人公。
娘の胸中を知ってか知らずか、頼んでもないのに出向いてくる母親。
そこに安心を感じて一気に感情が溢れでる主人公のすがたが涙を誘います。
浄土真宗の仏さまがお立ちすがたなのは、私を放っておけないと出向いてくださる仏さまの慈しみのこころが表れていると先に触れました。
仏さまがご覧になられた人間のすがたは、迷いの世界で苦悩していくものでありました。
自分でも知らないうちに道を踏み外し、思い通りの人生を歩むことができず、周囲に嘲笑われ、誰にも胸のうちの苦しみを語ることができず、世界の隅っこで人知れず孤独に過ごしていく。
阿弥陀如来という仏さまは、その私の悲しさや寂しさを知り抜いているからこそ、今この胸の奥底深くに“南無阿弥陀仏”と出向いてくださり、宿ってくださる仏さまとなってくださったのでした。
ちなみに
ちなみに、このCMはひと月ほどでTV放映が終わってしまいました。
インターネット上では
「あまりにもかわいそうだ」
「自分の子どもが就活生だが見てられない」
「なぜハッピーエンドにしないのか」
といった苦情が多く入ったからだと噂されています。(公式発表が見つからなかったので真偽は分かりません。東京ガスの他のCMが賞を取ったのでそちらを優先的に流すためなどという説もあるようです)
私も自分の就職活動の経験から、こうした意見には頷けるところもあります。自信があった会社から、“お祈りメール”と呼ばれる不採用通知が来た時には、まさにCMの彼女と同じように自分の存在が否定された感覚に陥りました。
その反面で、その意見の背景にあるものにも目を向けていきたいものです。“新卒至上主義”といった就職活動で失敗が許されない緊張感や、働いている人間が幸せで価値があるという考えが前提にあるからこそ、このCMはバッドエンドだと言われるのでしょう。
就職活動に失敗して自己嫌悪に陥り、働けなくなって世間から指をさされたとしても、その自分を認めてくれる存在があるならそれは決してバッドエンドでないと私は思います。
今の社会で、ましてや渦中にいればそう思うことが難しいのはもちろんなのですが……。
仏教は世間の常識を超え出た世界が説かれていることから、“出世間の教え”“超常識の教え”と言われます。
自分が世間の中心である強い側・賢い側の人間であると思い込んでいるうちは、その言葉が響くことはないでしょう。
しかし、遅かれ早かれ人間は必ず自分の限界に打ち砕かれ、自身の弱さや脆さを突きつけられる日がやってきます。
その時に、「“強い人間”や“成功者”でなければ価値がない」という理屈しかなければ、そこにもう私の居場所はありません。
世間の常識や道理は、いつでも強く声の大きい側の人間によって作られていきます。
その常識は、自分が弱者になった時に必ず牙を向けてくるものです。
そんな私に対して向けられた「あなたが弱く愚かであろうと関係ありません。そのあなたを捨てない仏がいますよ」という仏さまの言葉に出遇う時に、この人生を生き抜くことができる道が恵まれるのではないでしょうか。