パーリ語の『中部経典』に説かれている「毒矢のたとえ」を紹介します。
ある人が毒矢に射られたとします。
まわりの人たちが急いでお医者さんを呼び、毒矢を抜いて毒や傷口の手当てを始めようとしました。
このときに、けが人が
「矢を抜くのはちょっと待ってください。その前にこの矢は誰が射たのか教えてください。男か女か、どんな家の出身なのか。そもそも、どんな弓を用いたのだろうか。大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、弦は藤蔓か筋か、矢は籐か葦か、羽根はどのようなものか……それが分かるまで、矢を抜くのはちょっと待ってください」
と言い出したらどうなるか──十中八九、調べているうちに毒が全身にまわって死んでしまうでしょう。
この状況で最初におこなうべきことは、矢を抜いて、毒が全身にまわらないように手当てをすることです。
さて、お釈迦さまはこの話を通じて私たちに何を教えてくれているのでしょうか。
「現代人の1日の情報量は、江戸時代の人の一生分」と聞きます(明確な根拠はないと思います)。インターネットをはじめとしたさまざな情報技術の発達によって、地球の裏側の状況まで瞬時に分かるようになりました。
私たちは生まれた瞬間から多くの知識や情報を吸収して成長します。そして知らなかったことを知ることで、世界観や人間観が深まって視野が広がっていきます。
しかし、世の中には誰にも答えがわからない謎も多くあります。
宇宙の始まる前はどうだったのか?
どうやって地球に水が生まれたのか?
人間はなぜ笑うのか、涙を流すのか?
どうして麻酔が効くのか?
海底には何があるのか?
夢を見る原理とは?
お釈迦さまはこうした質問をされると、何も答えないで沈黙を守ったそうです。
そんなお釈迦さまに対して
「どうして答えてくれないのですか?知らないなら『知らない』と言ってください。私は気になって仕方がないのです。お釈迦さまの答えを聞いてから教えと真剣に向き合って修行をはじめます」
と言う人が現れました。
お釈迦さまは答えます。
「私が説かない教えは、説かれないものとして理解してください。私は『宇宙が永遠か、そうでないか』『魂があるのか、ないのか』などについては説きません。だから、あなたは決して答えを聞くことはできません。『答えを聞かないと修行がはじめられない』というなら、あなたはいつまで経っても苦しみから解放されることはありません。私が説く教えは、苦しみからの解放です」
お釈迦さまが説かれる教えは、私たちの知的好奇心や関心を満たすためのものではありません。知識を増やすためのものでもありません。心の奥底にある苦しみを解消するためのものです。
そもそも、宇宙の謎が解明され、人類の不思議がすべて理解できたとしても、そのことと私自身の苦しみからの解放とは何も関係ありません。
「ビッグバンの前には何が存在したのか」「セメントはなぜ固まるのか」など、その理由が分かったところで、私たちが根源的に抱えている老・病・死の真実は変わりません。人生に伴う悲しみ・愁い・苦しみ・悩みも消えることはないのです。
お釈迦さまは、「私たちがどうして苦しみを抱えねばならないのか。どうすれば解決できるのか」という人間が抱える根本的な問題の解決を最優先されました。それが仏教の教えです。
しかし、科学が発展して情報が溢れている現代社会だからこそ、私たちは本当に解決しなければならない毒の手当て──“いのちの問題”に目を向けることが難しくなっているようです。
人間は生まれた以上、ジワジワと毒に蝕まれるかのごとく、悲しみや辛さを抱えながら死に向かって生きるしかありません。そのことを忘れていたずらに情報を追い求めては消費し、振り回され続ける私のすがたは、なんとも滑稽なものでしょう。
お釈迦さまが語った毒矢のたとえは、今の時代に生きる人間に向けられているようにも思います。