善人ばかりの家には争いが絶えない
悪人ばかりの家には笑顔が絶えない
とある夫婦の一場面。休日の昼下がりに、ご主人が奥さんにコーヒーを入れてくれるよう頼みました。奥さんはお茶を入れて、リビングへ運び、ご主人のテーブルの前にカップを置こうとします。が、その時に手元を滑らせて、コーヒーをこぼしてしまいます。こんな時、「善人ばかりの家」ではどうなるでしょうか。
「君は本当にそそっかしいな。お茶のひとつもまともに出せないのか」
「あなたがコーヒーを入れてって頼んだんだから、出してあげたんじゃない。それなのに、なんでそんな言われ方しないといけないの」
お互いに「自分が善人である。正しい。立派である」と主張し、反対に相手を「間違っている。悪である」と裁いていく人ばかりの家庭は、争いが絶えません。では、「悪人ばかりの家」ではどうなるでしょうか。
「ごめんなさい!大丈夫?火傷はしてない?私ったらそそっかしくて……」
「いやいや、君の方こそ大丈夫?僕が最初からコーヒーくらい自分で入れれば良かったものの、君に頼ってばかりで申し訳ないね」
お互いに「自分が悪人である」と主張する。つまり自分の非を認め、「私が愚かであった」と言い合える家庭であったら、いつまでも争いなく笑顔が絶えない家庭が築いていけるのではないでしょうか。
これは一対一の人間関係や家庭に止まる話ではありません。戦争が起きたときに、自分の国から見ればこちらが「正義」で相手の国は「悪」です。一方で、相手の国はこちらの国を「悪」と考えます。争いというのは、いつでも「正義」と「悪」ではなく、「正義」と「正義」のぶつかりあいなのです。もっと正確にいえば、「自分を正義だと思っているもの」と「自分を正義だと思っているもの」です。
争いというのはいつでも「私が正しい、正義である」という心に執着するところから生まれるのです。
しかし実際のところ、人を責める言葉の多い世の中で、自分のいたらなさを人前にさらすことはなかなかできないことです。私たちは煩悩というものを持っていますから、ついつい自分を守ろうと、自分の都合ばかりを優先してしまいます。人間とはそういうものです。
それでも、自らが善人であると自惚れ、自分に都合のいい主張で相手を裁いていくよりも、「自分がいたらなかった」「私が悪かった」と、こころを開いて向き合う『愚かな人間関係』のほうが争いごとは起きにくい。どんな家庭であっても、どんな社会であっても、これだけははっきりといえるのではないでしょうか。
最後にこの話を表している相田みつをさんの詩をご紹介いたします。
セトモノとセトモノと
ぶつかりっこするとすぐこわれちゃう
どっちかやわらかければだいじょうぶ
やわらかいこころをもちましょう
そういうわたしはいつもセトモノ