氷のたとえ


「仏さま(悟り)」には「仏さまではないもの」を「仏さまに仕上げる」という性質とはたらきがあります。このことを仏教では「法(ほう)」と表します。


福岡県の成照星(せいしょうせい)先生が次のようなたとえ話を紹介していました。

氷を手に持つと、私たちは「手が冷たい」と感じます。

なぜ、手が冷たいのでしょうか。それは氷が冷たいからです。

では、氷が冷たいのはどうして分かるのでしょうか。それは手が冷たいからです。

氷は冷たいという性質を持っています。この冷たいという性質が相手に対して作用を表すときに、相手を自分と同じ「冷たい」というすがたに仕上げようとはたらきます。冷たいという性質が私の肌に表れると、私の肌は冷たいと感じます。

また、私の手が冷たいということは、私が手に持っているものが「冷たくする」という作用を私の肌にもたらしたということです。

「冷たくする」という作用を私に対して表すものは、そのものが性質を冷たいという性質を持っていなければいけません。


氷が冷たいと感じるのは、氷自身に「冷たい」という性質があると同時に、その冷たい性質を他のもののうえにも表そうとして、「冷たくないものを冷たくする」とはたらくためです。


同じように、仏さまも仏さま自身に「悟り」という性質があると同時に、その悟りの性質を他のもののうえにも表そうとして、「迷いの衆生を悟らせる」とはたらきます。


そこで、「仏さまの悟りは誰にでも届いているのだから、その邪魔をしているもの(煩悩)を自分で取り除こう」というのが多くの仏教での考え方です。


しかし、浄土真宗は違います。仏さまの悟りは、仏さまの悟りでなければ持っていない性質があります。そこに注目します。
それは、仏さまの悟りは、悟りでないものに作用するときに「相手の迷いを打ち破って悟りに仕上げる」とはたらく性質です。
ちなみに煩悩は残ったままなので、立派な人間になるということではありません。


ただ、このはたらきを妨げるものとして、私たちには「疑い」があります。


そして、私に分かる範囲はあくまで「私を悟らせるはたらきが届いている」ということだけです。私たちを悟らせる阿弥陀如来がどんなものか本来は分かりません。


そこで悟りの側から私を悟らせるために説かれたお経の言葉をお聞かせに預かるところに、私たちのうえに何が届いて表れているのかを信知する世界が開かれていきます。


また、氷を持ったときに「冷たーい」と発するのも、発しているのは自分かも知れませんが、発せさせているのは氷です。
氷の冷たさが私の肌を通し、言葉となって口から現れ出ているのです。


同様に、私が「なんまんだぶ」とお念仏を称(とな)えているのも、称えているのは自分かも知れませんが、称えさせているのは仏さまであることがお経からうかがえます。
仏さまのはたらきが私のいのちを通し、言葉となって口から現れ出ているのです。


つまり、私たちが仏教の言葉や教えに触れたり、お寺へお参りしたり、手を合わせたり、お念仏を称えたりするときには、


もうすでに私を悟らせるべく、仏教の言葉や教えに触れさせ、手を合わせしめ、お念仏を称えさせる仏さまのはたらきに包まれているということです。


分かりやすくなるかと思って図を作ってみましたが、かえって分かりにくく誤解を与えるようなものになってしまったかも知れません。すみません。

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2017年09月03日