「隠彰顕密」とは今年の安居論題のひとつです。

自分の勉強用に『親鸞聖人の教え』という本から関係するところをまとめています。

『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』のそれぞれが第十八願・第十九願・第二十願の願意を開説し、弘願・要門・真門の法義を説かれたものと示される一方で、「それぞれの経典の本意は他力念仏に導き入れることにある」と領解されたのが親鸞聖人の「顕彰顕密」の義です。
『仏説観無量寿経』について『教行信証』「化身土文類」に
問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。 (『註釈版』p.392 /『浄聖全』2-p.187)
と示されているように、この義は善導大師の指南であることがわかります。

善導大師の『観経疏』「玄義分」には
いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。(『註釈版七祖』p.305)
と『仏説観無量寿経』の中心として、観仏三昧と念仏三昧とがあると示されていますが、最後の「散善義」には
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(『註釈版七祖』p.500)
といわれます。仏さまの本願よりうかがえば、定善・散善は利益ではなく、流通分の「無量寿仏の名を持て」の語に一経の肝要があり、称名念仏を説くことこそが仏さまの本意であると見られています。
そして善導大師を承けて法然聖人もまた、定善・散善の自力諸行を廃し、専修念仏を浄土往生の行として示されています。

親鸞聖人は『観経疏』に用いられている「隠顕」の語と、先に引用した善導大師の教示により、独自の「顕彰顕密」の義を展開されました。
具体的には上に挙げた文に続き、
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は、自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの『経』(観経)の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの『経』(観経)の隠彰の義なり。(『註釈版』p.381)
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕すものであり、往生するものについて上・中・下の三輩の区別をし、至誠心・深心・回向発願心の三心を示しています。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は報土に生まれる真の因ではありません。三輩のそれぞれが発す三心は、それぞれの能力に応じて発す自力の心であって、他力の一心ではありません。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善です。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義なのです。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしています。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのです。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義です。
といわれています。また、
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。(『註釈版』p.382)
「諸々の仏たちには特別な手立てがある」と説かれています。これは定善・散善のさまざまな善が説かれるのは、他力念仏に導き入れる仮の手だてとしての教えであることを顕します。また「仏の力によってその世界を見ることができる」と説かれています。これは仏の力、つまり他力によって往生することを顕します。
といわれています。『仏説観無量寿経』では定善・散善の行法が顕著に説かれています(顕説)が、これは方便です。また「仏力によって浄土を見る」と説かれるのであるから、これは他力を示します。さらに、
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。(『註釈版』p.382)
「この身のままで念仏三昧に入ることができる」と説かれている。これは定散の観察が成就して得られる利益は他力の念仏三昧であることを顕す。
と、定散の観法が成就する利益が念仏三昧であるといわれています。
このように経の表面に顕著に表れてはいなくても、そこには他力の法が示されている(隠彰)と見られています。
「隠顕」という言葉自体は、道綽禅師や善導大師の著述にもあります。しかし親鸞聖人は経の表面に自力の行が説かれて(顕説)いても、微かに説かれた他力の法(隠彰)にこそ釈尊の本意があることを顕す言葉として「隠顕」の言葉を用いられたのです。