『仏説阿弥陀経』についても同様に
『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下 五六三)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意 五七五)といへり。これはこれ、この『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知りましょう。その「顕」についていうと、釈尊は念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心を発すようにと励まされ、難思往生を勧めています。このようなわけで『阿弥陀経』には「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはありません。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれています。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものです。これが真門の中の方便である。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無礙の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧め、すでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下 五七五)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ、隠彰の義を開くなり。(『註釈版』p.397)
その「彰」とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものです。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにも妨げられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しです。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない穂と桶がたにたたえられる信心です。だから自力の心では、この信心を得ることなど到底できないというのです。善導大師の『法事讃』には「仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏してただちに往生させていただくのである」といわれています。これは隠彰の義をあらわすものです。
と述べられています。冒頭に「『観経』に准知するに」とあることからすれば、『仏説阿弥陀経』についての隠顕の説示には、念仏の中にも「自利の一心を励まして」行う自力の念仏があることを厳しく見ていかれたのです。
親鸞聖人が『仏説阿弥陀経』のどこに隠顕を見られたかについては、前述の引用の通りです。つまり、経文に諸行を「少善根福徳因縁」と説かれていることからすれば、念仏は「多善根・多功徳・多福徳因縁」の行であり、行徳の多少の違いでしかない相対的な善となってしまいます。
自力の念仏と自力の諸行とはどちらも自力の行であるので、その徳の違いは多少という量的なもののみです。
本願のはたらきは他ならない他力の念仏と自力の諸行との相違は、『教行信証』「行文類」二教二機対に「因行果徳対」と示されています。衆生の行徳の多少という量的な価値の相違のみではなく、阿弥陀仏の徳そのもの(果徳)であるところの他力の念仏と、まだ仏になっていないものの行い(因行)であるところの自力の諸行という質的な相違のみです。
また、経には
その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。
とあることから、具体的には仏の来迎をまって往生の可否をみる自力の念仏と考えられます。
このように『仏説阿弥陀経』の表面には、そこに説かれる念仏が自力の念仏であるように説かれています(顕説)。
ところが、経の最後に衆生の自力によっては信じることが不可能な法(他力念仏)であることを示す「難信之法」という言葉を説かれています。この言葉には真実教である『仏説無量寿経』と同じ仏の本意が微かにあらわれている(隠彰)として他力の法を見ていかれたのでした。