人間には心身を煩わせ、悩ませる精神作用である「煩悩」があります。
仏教用語なので説明が必要ですが、「自己中心性」といわれることがあります。
自分と他者を切り離し、「私が」「私が」という自分中心の考え方によって過ちを重ね、嘘をつき、人を傷つけ、自分も傷ついて、悲しみや苦しみを抱えていく……そのことにもなかなか気づくことはできません。
煩悩を断つことによって、悟りをひらいた人を「仏陀(ブッダ|目覚めたもの)」といいます。お釈迦さまもそのひとりです。
煩悩を離れているということは「自己中心性」がないということです。
つまり、悟りとは「他者中心性」と言い換えることもできるのではないでしょうか。
といっても、厳密には悟りの境地に至れば「他者」という概念すら存在しないので、こうした表現は適切ではありません。
便宜上の表現、私の受け取り方のひとつということで勘弁してください。
「あなたのために」と相手を中心にして考え、知り、そして苦悩を取り除く……そうした仏教の真理の顕現を「無量寿仏(阿弥陀如来)」と仰ぐ教説が『仏説無量寿経』には説かれています。
そんな仏さまが衆生に寄せる心を次のように味わった言葉があります。
あなたより
あなたを思う方がいる
これは西本願寺で「み教えとご縁をいただく私が、ご縁をつなぐ言葉」として募集されたものの中から、最優秀賞に選ばれた作品です。
私が自分を思うよりも私のことを思ってくれる存在こそ仏さまである……ということを表したのではないでしょうか。
お説教ではこの関係性を身体の一部に喩えた次のような話をよく聞きます。
自分の手を開いて指を見てください。
親指が仏さまで、小指が私です。
仏さまと私の間を裂いているのは3本の指。これが煩悩の代表である「貪り」「怒り」「愚かさ」です。
改めて指を見てみると私は煩悩に沿って、煩悩と同じ方向を向いているのが分かります。
しかし、親指だけは違います。常に小指のことを見ている。
つまり、私がそっぽをどれだけ向いていようと、常に仏さまは「あなたのために」と私を願い、見守り、はたらき続けてくださるのです──。
「自己中心」の人間には、「他者中心」の仏さまのこころは理解できません。
それでも、ほんの少しだけ味わえるような出来事が身近にあるのではないでしょうか。
後輩の女の子が宮崎県の実家に帰省したときの話です。朝、起きてリビングに行くと父親の姿がありました。
少し気まずい……というのも、父親は口数が少なく、ふたりっきりだと何を話せばいいのか分かりません。
昼から出掛けるためにテレビの天気予報を見たかったのですが、一刻も早くこの場から去りたくて仕方がない。
ふとテーブルに目を向けると、そこには父親のスマートフォンがありました。
「午後に出掛けるから天気を調べたいし、ちょっとだけ借りるね」
天気予報のアプリを立ち上げるとそこに表示されたのは、地元の天気ではありませんでした
娘が暮らしている東京都の天気予報が表示されるように設定されていたのでした。
遠く離れた東京都の天気は、宮崎県で暮らす父親には必要ありません。ですが、そこに子どもを思う親心が表れてるようにも思います。
あくまで些細な喩え話ではありますが、人間の親であってもそうした「子ども中心」という心がどこかにあるのではないでしょうか。
まして先人たちに「親さま」と親しまれてきた大慈大悲の阿弥陀如来であれば、願いやご苦労の対象はいつでも衆生であります。
その仏さまが私の身に入り満ちて、「なんまんだぶ」と溢れ出ている事実と真実に出遇うのが浄土真宗です。