金獅子の比喩

お寺に生まれた人間ならではの話に、「お菓子」にまつわるものがあります。


たとえば、小学校の遠足へ持って行くお菓子といえば、普通は「ポテトチップス」「ポッキー」などのスナック菓子が定番です。

しかし、私は違いました。


本堂には参拝者の方々から仏さまへ、たくさんのお供え物があがります。中には高級な和菓子があることも。

「これを持って行きなさい」


親から渡されたのは、某有名和菓子店の高級最中。もちろん、お供えのお下がりです。

300円を遥かに超えるおやつを持って遠足へ。

結果から言えば、高級最中は誰にも手をつけられることなく、無傷のままお寺へ帰ることになります。

子どもにとっては上質な和菓子よりも、スナック菓子の方がいいのです。

どれほど価値があるものであっても、その価値が分からない人にとっては意味を持たないことを教えてくれた出来事でした。

これは、仏教で説かれる「さとり」にも通じる話です。

本来、仏さまの境地であるさとりは、色もなく、形もなく、心で思いはかることもできず、言葉で表現することもできない真実そのものです。
煩悩を持った人間に認識することができない境地は、“真如(しんにょ)”や“涅槃(ねはん)”という言葉でも表されます。お聖教には「法性法身(ほっしょうほっしん)」と示されています。

だからといって「無」なのかと言われれば、そうではありません。さとりというのは、さとりをひらいていない人間をさとらせるはたらきを持っています。

どのようにはたらくのかというと、すがたや形を表してはたらきます。そうしなければ私には価値がわからないどころか、接点をもつことすらできないからです。
この真実へ導き入れるための仏さま側のはたらきを「方便(ほうべん)」といいます。

具体的には、「阿弥陀如来」「南無阿弥陀仏」「極楽浄土」などがそうです。これらは、さとりそのものが私たちをさとりに導くためにすがたや形を表してくださったものです。「法性法身」に対して「方便法身(ほうべんほっしん)」といいます。


前置きが長くなりましたが、ここで紹介したいお話があります。
華厳宗の教学を大成した賢首大師法蔵(げんじゅだいしほうぞう)の『華厳金獅子章(けごんこんじししょう)』が出処といわれるお話です。


中国の歴史上でただ一人、女性で皇帝となったことで有名な則天武后(そくてんぶこう)。夫や子どもを殺して権力を奪い、唐に代わって武周王朝を作った女傑として知られます。
則天武后は、当時評判の高かった法蔵を宮廷に招いて『華厳経』の講義をさせました。
しかし、なかなか理解が進まないということで、法蔵は近くにあった黄金の獅子を用いて説明。この説明をまとめたのが『華厳金獅子章』といわれます。本来は華厳宗の根本教理である十玄縁起(十玄門)を解説したものです。

最近では大幅なアレンジが加えられており、次のような物語として扱われることが多くあります。

昔々、若くして大富豪になった男がいました。男は早くに妻を亡くすだけでなく、自分自身も大きな病気を患います。

いのちを終える前に、3歳になる子どもへ自分の財産をすべて譲ろうと考えたのですが、子どもにはお金の価値が分かりません。そこで男は全財産を美しい黄金に替えて子どもへ委ねることにしました。

最初はその黄金の輝きに興味を持っていた子どもでしたが、すぐに飽きて他のもので遊びだします。

これでは子どもへ黄金を譲ったとしても、財産を狙う悪い人間たちに奪われてしまう。そこで、男はその黄金を子どもが大好きだった獅子の形へ加工することにします。

すると、子どもは大喜びでその黄金の獅子を大切にするようになりました。

ここで語られる「黄金」は「さとり(法性法身)」を表し、「獅子(の形をした像)」はお経に説かれている仏さまやお浄土のすがた(方便法身)を表しています。

人間に対してさとりそのものを示しても、価値が分からないから何も思いません。
ですが、すがたや形を示すと、そこに惹かれて結果としてさとりを大切にするようになり、さとりに導かれていくことになります。


黄金の獅子はどこを切っても、黄金には変わりありません。同じように、お経に説かれる仏さまやお浄土の美しいすがたの一つひとつはどれをとっても、さとりそのものです。

そう聞かせていただきますと、お仏壇の仏さまのお立ちすがたも、お経に説かれるお浄土の煌びやかな様子も、私の口から称えられる「なんまんだぶつ」のお念仏も、すべてこの私を救うためのさとりのはたらきそのものであると味わうことができます。

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2017年04月02日