いま、ここでの救い2

浄土真宗の仏さまは、阿弥陀如来という仏さまです。


この仏さまは、私たちがいのちを終えて生まれていくことができるお浄土をご用意くださっただけではありません。
いま、私のいのちの元に「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉のすがた、お念仏のはたらきとなって届いてくださっている仏さまです。


以前、住職がこんな話をしていました。

人生は旅と同じです。旅が安心して楽しめるのは、帰る家があるからです。
では、人生の帰る家はどこでしょうか?
それがお浄土です。いのちの帰る家であるお浄土があるから、私たちは安心して生きていけるのです

なるほど、わかりやすいです。

しかし、これは自分の実体験と照らし合わせると違うことに気がつきました。


大阪で勉強会に参加した帰り道のことです。私には東京に帰る家がありますから、その日も安心して過ごすことができた……と思っていた矢先、新幹線の切符売り場であることに気が付きます。

財布がないのです。

焦った私はすぐに引き返し、立ち寄ったところ一つ一つに「財布が落ちてなかったか」と尋ねてまわりました。

しかし、一向に財布は見つかりません。

途方に暮れて鞄の中から水を取り出そうとしたその時──

なんと鞄の奥底から財布が見つかったのです。

この時の経験から私は、

「家があっても、今ここにいる私の手元に帰るだけの値打ちや手立てがなければ、安心することはできない」

ということを学びました。


浄土真宗はいのちを終えてお浄土へ参ることを説くご宗旨です。しかし、それは死んだ後にお浄土があることだけで完結するものではありません。
そのお浄土へ参るだけの値打ちのある南無阿弥陀仏の仏さまが、今ここにいる私のいのちに宿ってくださっているから安心することができるのです。


いつもお世話になっている先生からこんなお話を聞かせていただいたことがあります。

山口県の深川倫雄(ふかがわりんゆう)和上(わじょう・学位の高い僧侶への敬称)の弟子のひとりに広兼至道(ひろかねしどう)さんという方がいらっしゃいました。

広兼さんが大きな病気のため入院していたところ、深川和上がお見舞いにやってきてくださったのです。

「広兼くん、あなたはもうすぐ仏さまの世界であるお浄土へ参っていくんですね。仏さまとなったらどうぞ私たちを導いてくださいね」

「そうですね。ありがとうございます……」

深川和上は家に帰ってから「うーん、なんだか広兼くんの反応がイマイチだったな。今日の話はあんまりピンとこなかったのかな」と考えました。

そこでまたお見舞いに行った際、こんな言葉をかけたと言います。

「広兼くん、良かったですね。いま、あなたのいのちの中に大悲の阿弥陀さまが満ちあふれてくださっているね」

「そうですね和上さま、いまここに仏さまが満ちあふれてくださっていますね」

和上の言葉を聞くと、広兼さんは余命僅かの自分の身をおさえながら喜んだといいます。

 

いつかお浄土へ生まれて仏さまとなって遺された人を導く──それは、「いま」の話ではありません。いまの私が安心して喜ぶことができるのは、「いま」「ここ」「私のいのち」に、仏さまの功徳が満ちあふれていて、お浄土へ参ることが決定していることです。

だからこそ、いつどこでどんなかたちで人生を終わるかわかりませんが、どこでどんなかたちで人生を終えていっても、

「このたびの人生は仏さまと出遇えて良かったです。尊い人生でした」

という言葉遣いができるのです。

仏さまがいまここにいる私のいのちの元に「南無阿弥陀仏」と届いてくださる。そのことひとつをお聞かせにあずかるのが浄土真宗というご宗旨です。

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2017年04月16日