目には見えない仏さま

むかし、仏教の勉強をしていた時に、

「仏さまといわれても目には見えないじゃないか」

と考えていました。そのことを先生に質問してみたところ、

「あなたは季節が目に見えますか?」

と返ってきました。

私たちはふとした瞬間に、「春になったな」「もうすっかり秋だな」と、季節の訪れを実感することがあります。しかし、「春」とか「秋」とか季節そのものは目に見えません。どうして目には見えない季節の訪れを実感することができるのでしょうか。

それは、春であれば、冬の寒さが和らぎ、桜の花や梅の花が咲き、春一番が吹く…といった「春のはたらき」を通じて実感をするのではないでしょうか。春そのものは目には見えませんし、いつ春を感じるのかは人それぞれです。それでも春は誰のもとにでも、そのはたらきを通じて必ず訪れます。

仏さまも同じです。確かに目には見えないのかも知れませんが、はたらきを通じて私たちのもとに届いています。そのはたらきは、お寺へお参りしたり、お経の言葉に触れたり、おつとめをしたりとご縁が重なるなかで感じられるものです。また、“ホーホケキョ”と、ウグイスの鳴き声が聞こえると「春だな」と感じるように、“南無阿弥陀仏”と、お念仏の響くところに「仏さまのはたらきに包まれている」と感じることができます。

 

余談ですが、先生はさらに私に対して、

「本当に仏さまが見えたらいいと思いますか?」

と聞いてきました。目に見えたら、もっと親しみが出るのではないかと私は答えましたが、どうやらそうでもないようです。

例えば、阿弥陀如来という仏さまは「いつでもどこでもあなたを見捨てず、共にいる」という仏さまです。もしもそんな仏さまが目に見えたら…と考えると、ちょっと抵抗があります。

だからこそ、仏さまは目に見えるすがたではなく、「南無阿弥陀仏」という言葉のすがた、お念仏のはたらきとなって届いているのだとそのとき先生に教えていただきました。

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2017年01月08日