阿弥陀と号する1

浄土真宗の仏さまは阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏さまです。


「阿弥陀」という言葉は、音写語です。インドの言葉が中国に入った時に、言葉の“意味”ではなく“音”に対して字を当てることがありました。
「America」という英単語に漢字を当てはめて「亜米利加」と表記するのと同じで……要するに当て字です。
古代インド語であるサンスクリット語の「amita(アミタ)」に漢字を当てはめたのが、「阿弥陀」ということになります。

では、サンスクリット語の「amita」にはどんな意味があるのでしょうか。


「a」には否定の意味があります。
英語でもaはギリシア語系の名詞・形容詞・副詞に付くと、非・無・欠如といった否定を表す接頭辞として用いられます。
例えば“symmetry(左右対称)”にaを付けると“asymmetry(左右対称)”になります。他にも“achromatic(色の)”とか“anarchy(秩序)”とか“anonymous(名の)”とか……。
もちろん、サンスクリット語でも英語でも“a”がつけば全部が否定になるわけではないので注意が必要です。


「mita」はmā (マー:量る)の過去受動分詞で、量られたの意味になります。
英語でもmeter(メーター)という長さの単位を意味したり、ガスメーターや料金メーターのように計量器を意味するmitaと似た単語があります。
この言葉の語源は、メトロンという「ものさし」「はかること」を意味するギリシア語にあるので、厳密には関係ありません。


しかし、19世紀にヨーロッパでサンスクリット語とギリシア語の言語上の類似が着目され、そのことがインド・ヨーロッパ語族という概念や、比較言語学の成立のきっかけとなったことから、もしかしたらmitaとmeterは親戚の言葉なのかも知れません。

以上のことから、「amita」は、「量ることのできない」という意味になります。中国語では「無量(むりょう)と意訳されます。

ですから、まとめると「阿弥陀」=「amita」=「量ることのできないもの」=「無量」ということです。


このことから、「阿弥陀仏」は「無量の仏さま」であることが分かりました。

では、具体的に何が無量の仏さまなのか……今から2500年前にインドにいらっしゃったお釈迦さまが、『仏説阿弥陀経』というお経のなかで説き示してくださっています。

舎利弗(しゃりほつ)、なんぢが意においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。
【私訳】弟子の1人である舎利弗よ、あなたはどう思いますか。どうしてその仏さまを阿弥陀さまと申し上げるのでしょうか。
舎利弗よ、その仏さまの光明には限りがありません。すべての国々を照らすだけでなく、何ものにもさまたげられることがないのです。だから、阿弥陀さまと申し上げるのです。
また舎利弗よ、その仏さまの寿命とその仏さまの国の人びとの寿命には限りがありません。はかり知れないほどに長いのです。だから阿弥陀さまと申し上げるのです。

どうやら、「光明」と「寿命」が無量のようです。「ひかり」と「いのち」が量り知れないとはどういうことでしょうか。


光が量り知れないとは、空間的な制約がないことを表しているといいます。
家にいても、お寺にいても、病院にいても、海外にいても照らしてくださる無限の光の仏さまなのです。


しかも、「障礙するところなし」とあります。どんなものも妨げにならないということは、私が仏さまにそっぽを向いたり、仏教の教えに関心がなかったり、どんなに深い煩悩の闇に包まれていても、その闇を打ち破って届く光の仏さまを意味します。


寿命が量り知れないとは、時間的な制約がないことを表しているといいます。
昔の人にも、現代の人にも、未来の人にも、時代を超えてはたらいている無限のいのちの仏さまなのです。


どんな時もということは、私が元気な時も、病気の時も、楽しい時も、悲しい時も、誰かといる時も、孤独な時も、今も、いのち終えるその時もご一緒くださる仏さまということです。


以上のことから、阿弥陀仏とは「いつでも」「どこでも」「誰にでも」はたらいてくださっている仏さまということが分かりました


「いつでも」「どこでも」「誰にでも」ということは、この記事を読んでいる「今」「ここ」「私」のところにも届いているということです。


目には見えない、手で触れることのできない仏さまですが、「南無阿弥陀仏」と言葉の形となって既に私たちのいのちに宿ってくださっています。
お念仏が「なんまんだぶつ」が響くところに、「阿弥陀仏が届いてますよ。いつでも一緒ですよ」と、そのはたらきに自らのいのちが包まれていることを味わわせていただきます。

阿弥陀と号する2

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2017年05月21日