パンタカ兄弟

お釈迦さまの弟子にチューラパンタカ(周利槃特|しゅりはんどく)という人がいます。


『根本説一切有部毘奈耶(こんぽんせついっさいうぶびなや)』という仏教に伝わる戒律について説かれた経典には、彼にまつわる物語が書かれています。
有名な話ではありますが、原典を読む機会があったので、できるだけ流れに沿って紹介します。


チューラパンタカの兄であるマハーパンタカ(摩訶槃特|まかはんどく)は賢いうえに努力家で、お釈迦さまの弟子となると、すぐに周囲から尊者と呼ばれて敬われるようになりました。


ある日、出家した兄と別れて暮らしていたチューラパンタカは、外が賑わっているのを見て周囲の人たちに尋ねます。

「みなさん、こんなに大勢で集まって何かあったんですか」

「あなたのお兄さんであるマハーパンタカ尊者が、500人の弟子たちと国に帰ってくると聞いたからみんなで迎えることにしたんだよ」

「そうだったんですか、それならば弟である私も行かなくては」

チューラパンタカは、兄に会い行きました。


「弟よ、久しぶりだな。元気でやっているか。暮らしはどうだ?」

「兄さん久しぶり。暮らしは大変で……」

「そうか、それならば出家をしたらどうだ?」

「僕みたいな愚かな人間を誰が出家させてくれるんだ」

「それならば私が出家させてあげよう」

マハーパンタカは弟へ出家戒と道具を授けると同時に、簡単な仏教の教えを伝えました。


しかし、チューラパンタカは3ヶ月経ってもその教えを理解できないどころか、覚えることもままなりません。周りで練習を聞いていた人たちの方がその教えを先に習得していたほどです。

しばらくして、修行僧の先輩たちがチューラパンタカに尋ねます。

「チューラパンタカさん、あなたは師匠であるマハーパンタカ尊者に教えを請わなくていいのですか?」

「僕は3ヶ月が経っても教えのひとつを覚えることができませんでした。また教えを請うことはちょっと気後れしてしまって……」

「行き詰まっているからこそ、教えを請うべきではないですか」

悩んだあげく、チューラパンタカは仕方がなく兄の元へ向かうことにしました。

マハーパンタカ尊者は、弟が人に言われてしぶしぶやってきたことを見抜き、心を鬼にして叱ります。


「こんなことは言いたくないが、お前は本当に愚かで鈍い。この教えを聞いたところで、お前には何も意味は成さない。修行を諦めて家に帰り、父や母に孝行をしたらどうだ」


兄の厳しい言葉にショックを受けたチューラパンタカは、その場を飛び出してシクシクとひとりで泣くばかりでした。

「チューラパンタカよ。あなたはどうしてこんなところでひとり泣いているんですか」


顔をあげると、そこに立っていたのはお釈迦さまでした。

「お釈迦さま、僕のような愚鈍で智慧もない者は、仏教教団に必要ないですよね」

「そんなことはありませんよ。もし良かったら私のもとで改めて教えを学んで修行をしませんか」

「でもお釈迦さま、僕は非常に愚かで鈍い人間です。お釈迦さまのような偉大な先生のもとで学ぶことなど許されるわけがありません」

「自分が愚か者だと自覚している愚か者のことを賢者といいます。自分を賢者だと思っている愚か者のことを、真の愚か者といいます」

お釈迦さまはチューラパンタカに対して、「塵をとり除こう」「垢をとり除こう」というふたつの言葉を授けました。しかし、チューラパンタカはこの言葉を覚えることもままなりません。


そのすがたを見たお釈迦さまは、掃除をすることも勧めます。

「塵をとり除こう。垢をとり除こう。塵をとり除こう。垢をとり除こう。」


周囲の協力もあって言葉もなんとか覚えることができたチューラパンタカは、来る日も来る日も言葉を暗誦しながら掃除を続けます。

ある日の夜明け頃、チューラパンタカは物思いに耽りました。

(お釈迦様は「塵をとり除こう」「垢をとり除こう」というふたつの言葉を僕に覚えさせ唱えさせてくださった。でも、この言葉にはどんな意味があるのだろうか。
そういえば、塵や垢といっても外に溜まるものでけではないよな。人間の内側にも溜まるように思えるけど……この教えは、内の塵や垢のことを言っているのだろうか、それとも外の塵や垢のことを言っているのだろうか)

そんなこと考えていると、突如として視界が広がり、善根が起こり、障害がなくなり、チューラパンタカの頭の中に三つの詩が浮かびました。

この塵は土埃にあらず、実は欲望を塵というのだ。この欲望を除去するのは賢者であり、怠惰な者ではない。
この塵は土埃にあらず、実は怒りを塵というのだ。この怒りを除去するのは賢者であり、怠惰な者ではない。
この塵は土埃にあらず、実は迷妄を塵というのだ。この迷妄を除去するのは賢者であり、怠惰な者ではない。

するとチューラパンタカはこの教えの意味を習得し、教えにしたがって修業を重ね三つの毒を除滅し、真面目に怠らず全ての煩悩を断ちました。そうして悟りを開くと兄と同じように多くの人々から尊敬されるようになったのです。

仏教では、知識を蓄えることや、物知りであることは重要ではありません。それどころか、自分の知識に誇りを持つような人は、傲慢になりやすく、頭の良いことが仏道を歩む妨げになってしまうのです。

チューラパンタカのようにただひたすらに教えを実践する人こそ、自分を省みることができて、より仏教の教えに向き合えるようになります。

悟りを求める人に共通するのは、「高い理想を持っている」という点です。だからこそ、自分の至らなさに目を向けることができて、自然と謙虚な人格となっていくのでしょう。

チューラパンタカもまた理想を持っていたからこそ、教えを覚えることができない自分の愚かさを内省して落ち込むだけでなく、ひたむきに「塵をとり除こう」「垢をとり除こう」と唱えながら実践を重ねることができたのです。

そもそも、本当に愚かな人間は理想を持つことがありません。立ち止まって自分を見つめることなく、それどころか自分が偉いと思い込んでしまいます。

悟りの境地とは、自分の心から塵や垢を除くことであると教えてくれるのがこのお話です。この心の塵や垢を仏教では「煩悩(ぼんのう)」と呼びます。

この煩悩によって私たちはものごとを自分の好き嫌いで判断し、思い通りにものごとが進めば喜び、進まなければ悩むのです。そして、人生は思い通りにいかないことの方が圧倒的に多いので、私たちはどこにいても、どんな時でも悩みが尽きることがありません。

チューラパンタカのように自分の愚かさを省みて、心の塵や垢を意識しながら人生を歩む中で、悩みが消えなくとも、その質が変わっていく人生が恵まれていくのではないでしょうか。

法話一覧

2017年06月11日