昔々、果てしなく広がる荒野を
ひとりの男が歩いていると……、
突然、暴れまわる象が男を追いかけてきました。
男は必死で逃げ回りますが、どんどん象は迫ってきます。
(周りを見まわしても、身を隠すところがない……このままでは象に踏み殺されてしまう!)
そう思った時、古い井戸が男の目に飛び込んできました。
(あの井戸の中に逃げ込めば助かるかも知れない!)
男は一目散に井戸めがけて走りました。
井戸の中の水は枯れていて、中には樹の根っこが垂れ下がっています。
なんとも頼りないものでしたが、恐怖に震える男は一心にその根をつかみ、井戸の中に逃げ込みました。
象は井戸の中をのぞき込みますが、中までは入ってこられません。
象から逃げることができて、ホッとしたのもつかの間。井戸の底を見た男は再び凍りつきます。
井戸の底には毒を持った大きな龍が口をあけて男をにらみつけ、
井戸の四方には4匹の毒蛇が待ちかまえていたのです。
(もしも落ちてしまったら、命はない……)
男は細い樹の根を離すことがないように必死になります。この樹の根こそが希望であり、文字通り命綱でありました。
しかし、その希望はすぐに不安へと変わります。
黒と白の2匹のネズミが、交互に樹の根をかじっているではないですか。
〈photo by hojodo〉
地上には暴れ象、底には毒龍……絶体絶命とはまさにこのことです。
さらに追い打ちをかけるように、野火が樹に迫ります。
男が恐怖に身を震わせ天を仰いでいた──その時。
男の口に、甘い蜜が5滴ほどしたたり落ちてきました。井戸の上の樹木にできていたミツバチの巣から落ちてきたのです。
そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思った男は、切れそうな木の根をゆさゆさと揺すり出します……。
このお話は『仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)』や『衆経撰雑譬喩(しゅきょうせんぞうひゆ|衆経撰『雑譬喩経』)』というお経に説かれているものです。(『衆経撰雑譬喩』では迷いの世界である三界を喩えた牢から逃げ出した罪人として説かれています〈浄土真宗本願寺派総合研究所ホームページより〉)
「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のたとえ」「甘い蜜のたとえ」「古井戸のたとえ」と呼ばれ、人間のすがたを巧みな比喩を用いながら的確に表現した仏教説話として知れらます。
男は私たち凡夫のことで、荒野は私たちの長い迷いを表しています。迷いの中にあって真理に暗い存在であるため、物事をあるがままに見ることができず、すべてのものが移ろいゆく無常という名の象に苦しめられる姿が描かれています。
井戸は私たちの人生を、男がつかんでいる樹の根は寿命、2匹のネズミは昼と夜のことで、交互にかじっているという描写は月日の経過のたとえです。
4匹の毒蛇は死に至る苦しみのことといわれます。
樹の根が切れる……つまり寿命が尽きれば死を迎えますから、井戸の底の龍は死の象徴です。
樹の根を襲う野火は命を脅かす老いと病いの恐怖を示しています。
そうしたギリギリの状況におかれながら男が心を奪われている甘い蜜は、人間の欲望のことです。まとめると次の画像の通りです。
このたとえ話のテーマは「諸行無常」です。私たちは、この無常の世にありながら、目先の楽しみに心を奪われて生きています。
人のいのちははかないものであるにも関わらず、目の前にあるその場だけの楽しみに執着することは身を滅ぼすことになりかねません。人間に与えられている命、すなわち時間は限りがあるものです。誰にでもひとしく死は必ずやってくるし、決して時間は戻すことができません。
せっかく人間として生まれた限りある人生を欲望に振り回されるだけで終わる空しい人生とすることないように、一刻も早く仏法を聞き、無常の苦を超えることを勧められているのがこの「黒白二鼠のたとえ」なのです。
〈参考『季刊せいてん no.109「仏教説話 甘い蜜」』本願寺出版社〉