浄土真宗は「頑張れ」とは言わない仏さまを中心とするご宗旨です。
ここで気をつけたいのは、「本当は頑張って欲しいけど、あなたが頑張れなさそうだから頑張れとは言わない」という仏さまではないことです。
私たち人間の頑張りや努力はどこまでいっても見返りを求めたり、自分の思い通りにしようとしたりといった自分本位のものであって、誰かを傷つけ、自分も傷ついていくことばかり。
また、頑張ろうとしても次の瞬間にはどうなるか分からないのが私たちです。
だからこそ、仏さまは私たちに「頑張れ」とは言わないのでしょう。
それともうひとつ、以前こんな記事を読んで感じたことがあります。
親「もっと頑張れ」→子の生活力向上せず 調査結果発表
「もっと頑張りなさい」と保護者が子どもを叱って励ましても、自立した生活を営む力は向上しない──。そんな結果を国立青少年教育振興機構が1日に発表した。
調査は2012年9~10月、全国の公立校の小学4~6年生、中学2年、高校2年と、小4~小6の保護者を対象に実施。子ども約17,000人、保護者約7,800人から回答を得た。
「自分と違う意見や考えを受け入れる」「ナイフや包丁でリンゴの皮をむく」「上手に気分転換する」などを「生活力」と位置づけて、体験活動や保護者の関わりとの関係を見た。
その結果、小4~小6では「よく『もっと頑張りなさい』と言う」など、保護者が叱咤激励(しったげきれい)する度合いが高くても、生活力に違いは見られなかった。
一方、保護者が自分の体験を話したり、「山や森、川や海など自然の中で遊ぶ」といった自然体験や家の手伝い、読書などをしたりする子どもほど生活力が高かったという。
分析に当たった青山鉄兵・青少年教育研究センター客員研究員は「保護者の注意だけで、具体的な体験を伴わないと生活力は身につかないということだろう。ただ、体験を積めるかは家庭による格差もある。学校でどう取り組むか検討する必要がある」と指摘する。〈朝日新聞社〉
確かに自分も大学時代に家庭教師のアルバイトで生徒を怒ったり、檄を飛ばしたりしてみたこともありますが、あまり良い方向には進まなかったように思います。
前提となる信頼関係はもちろんのこと、結局「もっと頑張れ」という言葉は、叱咤激励をして相手を応援しているようで、実際には「(今のあなたのままではダメだから)もっと頑張れ」と相手の現状を否定することに外なりません。
「頑張れ」という言葉しかかけられない状況もあるので、言葉そのものを否定するつもりはありません。「もっと頑張りなさい」と言われて火がつく人もいると思います。
ただ、この記事の分析にもあるように、普通の人間は自分を否定されるような言葉を幾らぶつけられても、なかなか成長へと繋がらないのではないでしょうか。
そもそも、人に言われてなんとかなる程度なら大したことではない気がします。
どう頑張っても超えることができない苦悩や、どうしても頑張れない愚かさや弱さを抱えているのが私たちのありのままのすがたです。
仏さまが私たちに対して「頑張れ」と言わないのも、そのことを知っていたから……と新聞を読みながら考えさせられました。