生死流転


「オギャー」とこの世に生まれて、年を重ねて、病気になって、そしていのちを終えていく……現代人の多くはこれが自分のいのちのすがたであると考えますが、仏教はそうではありません。


私たちの日暮らしは、今日があれば昨日があって明日があるように、私たちのいのちもまた今のいのちがあれば、前のいのちもあって、次のいのちもあると考えます。
私たちは生まれて死んでそれで終わりではなく、生まれ変わり死に変わりしているというのです。このことを輪廻転生(りんねてんしょう)とか生死流転(しょうじるてん)といいます。


ただ、これを語る上で解決しなければならない問題が幾つかあります。

①お釈迦さまは死後の世界について何も答えなかった(無記|むき)のではないか

②「諸法無我(しょほうむが)」「縁起(えんぎ)」「空(くう)」を説く仏教において、輪廻する主体を認めるような考えは適当ではないのではないか

③前世や来世の話は現代人には通じないのではないか


まず、①と②ですが、初期仏教に触れると必ず生まれる疑問です。
原始経典こそが正義だと考える人はこの説をもって大乗仏教を批判してくることが多いのですが、結論から言うと①も②も間違いのようです。


実際にお経の原文をたずねると、①お釈迦さまが答えなかったのは人間の死後ではなく、如来の死後についてといいますし、②お釈迦さまは輪廻を積極的に是認して、そこからの解脱を説かれました。
詳しく知りたい方はこちらの論文にまとまっているので、ご一読ください。


続いて③です。布教使課程という研修で勉強していたときに、先生からこんな話を聞きました。

人間は死んだらそれで終わりという人は、とても視野が狭く、あまり賢い人とは言えません。知恵がつけば視野はひろがるものです。
我が家の孫を見ているとそのことに気がつかされます。
1歳のときは「美味しいものをお腹いっぱい食べたい」くらいのことしか考えていないので、孫の目の前にある食べ物を明日に残すために冷蔵庫へ入れようと取り上げると孫は大泣き。これは1歳児には「今」しかなく、「未来」というものがよく分からないからです。
しかし、3歳くらいになると未来を理解しはじめます。目の前にある食べ物を冷蔵庫へ入れるのを見ても泣きません。この食べ物がそう遠くない未来に再び目の前に出てくることを知っているからです。
1歳の子どもよりも、3歳の子どもの方が未来を見る目が育っているのです。
小学生になると、さらによく分かります。例えば、遠足の前日におやつを買いに行って選ぶのも楽しみのひとつです。しかし、そこで買うお菓子は今すぐ食べるものではありません。にも関わらず、上機嫌で買い物ができるのは翌日の遠足で友達と一緒におやつを食べる自分の姿を想像できるからです。
他にも寝る前に、遠足のしおりを見返して次の日の予定を立てたり、思いをめぐらすことができるのは、明日の自分の姿が見えているからでしょう。
1歳の子どもは「今」ということしか知りませんが、成長すると私たちは未来というものを考えるようになります。
一方で、高校生くらいの子が原付にノーヘルで二人乗りして信号無視をしているのを見ました。彼らはどうしてあんなことができるのでしょうか。
ぶつからないと考えているのか、当たったらその時はその時のことと思っているのか、事故で死んだらそれでおしまい程度のことと受け止めているのか……いずれにしても、先を見据えることのない彼らのすがたはあまり賢い振る舞いとは言えません。
私の息子は、昔は「持っているお金は全部つかい、明日は明日の風が吹き、困ったら親を頼ればいい」くらいの考え方をしていたのですが、結婚をして子どもが生まれると考え方が変わりました。
自分の子どものことを中心に20年後のことを想像するようになります。そして、学資保険に入って、貯金をするようになったのです。
結婚して子どもが生まれたことによって、未来のことに目を向けられるようになったということは、何も考えずにお金を使っていたときよりも知恵がついたといえるのではないでしょうか。
皆さんも老後のことを考えているはずです。40代50代にもなって「宵越しの金は持たない」と貯金をしない人はあまり賢いとは思えません。
そうすると、この人生が終わった先はどうなるのか……「後生の一大事」を考えられる人というのはとても聡明な人であるといえます。
もうひとつ、自分のいまの現状は「過去の私に原因がある」と知っている人は利口な人です。それを改めようという心が生まれるからです。そうでない人はちょっと考え直した方がいいかも知れません。
例えば、私はお酒が好きなので、よく献血に行って自分の血液を検査し、その結果によってお酒の量を調整していました。自分の体調は私のお酒の量によって決まるということを知っているということです。
自分のそれまでの行いが、今の自分を決定づけるということを知っていれば、生き方を改めてることができます。
しかし、中には自分の体調不良を占いなどで解決しようとする人がいます。
「あなたが病気になったのは、どうやら三代前の先祖の祟りが……」
こうした言葉を真に受けて怪しい霊感グッズに手が伸びてしまう人は、自分の行いに原因があるとは知らないからです。
自分のいまの現状は、いつでも自分の過去によって生み出されます。
ちなみに、仏教はいつでも自己を問う宗教ですので、こうした因果応報論を他者の評論に当てはめるのは大きな間違いです。
では、どうして私がこの娑婆世界と呼ばれる世界において、煩悩を抱える凡夫として苦悩していくのか──それはこの前の生においてもそうしたいのちであって、苦しみの世界を抜け出すことができなかったからです。
このことを知っている人と知らない人は大きく違います。今まで「生まれて死んでそれで終わり」としか生きてくることができなかった人が、「前世の因縁」「後生の一大事」の世界が開かれたというのは、視野が大きく広がったということです。
その私に対して、仏さまは「今度はもう苦しみの世界ではなく、さとりの世界へ生まれるんですよ。私がそのことを1から10まで成し遂げるので聞いておいてください」とおっしゃいます。
これはとても難しい話です。なぜかといえば、私たちにはスケールが大きすぎて理解することができないからです。


人間には量り知れない世界の話ですが、仏さまはそのようにご覧になったというお経の言葉を大切に受け止めていくのが仏教徒です。

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2017年08月27日