阿弥陀如来という仏さまは、どのようないのちであっても分け隔てなく平等に摂め取って、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申す身に育て上げ浄土へ救う仏さまです。
しかし、人間は「どのようないのちでも救われる」とは普通は考えません。良い人間は救われるが、悪い人間は救われないと考えます。
努力ができる人間、結果を出せる人間、悪いことをしない立派な人間は仏さまに救われて浄土に行くかも知れないけど、
サボってばかりの人間、頑張れない人間、罪を犯す愚かな弱い人間は地獄に墜ちる──と考える方が分かりやすいのです。
何故なら、
「人より良い点数を上げなさい」
「偏差値の高い学校を目指しなさい」
「勉強ができないと落ちこぼれですよ」
と言われてきた学校教育や、
「仕事が出来て稼ぎが良い人間が立派だ」
「高い地位でお金を持っていることが幸せで」
「競争に勝つことに価値がある」
「弱音を吐いたり、人に涙を見せるな」
とする弱肉強食の社会の在り方から考えれば、「善人は天国・極楽」「悪人は地獄」が自然です。
しかし、仏さまはそうではなくて
「良い人間」も「悪い人間」も、
「強い人間」も「弱い人間」も、
「賢い人間」も「愚かな人間」も
分け隔てなく捨てないとおっしゃいます。
人間の考え方とは違うので分かりにくいですが、この仏さまの心を宮崎幸枝先生から紹介してもらった絵本で例えてみたいと思います。
「ねえ、おかあさん、いいこってどんなこ?」
うさぎのバニーぼうやがたずねました。
「ぜったい泣かないのがいいこなの?
ぼく、泣かないように したほうがいい?」
おかあさんは答えました。
「泣いたっていいのよ。でもね、バニーが泣いていると、なんだかお母さんまで悲しくなるわ」
──その後も、「何も怖がらない強い子がいいこ?」と子どもが聞けば「怖いものがない人なんていない」と母親は答え、
「怒らない子がいいこ?」と聞けば「怒ってても笑っててもバニーが大好き」と答え、
「バカだったら嫌でしょ?」と聞けば、「どんなにバカやっててもあなたは宝物よ」と答えます。
最後に「じゃあ、お母さんはぼくがどんな子だったらいちばん嬉しい?」とバニーが聞くと、
「バニーはバニーらしくしていてくれるのがいちばんよ。だってお母さんは、いまのバニーが大好きなんですもの」
お母さんはにっこりと笑って答えます。
自分が強い人間であるとか賢い立派な人間であると思って耳をふさいでいると、なかなか仏さまの言葉は聞こえきません。
しかし、人間は誰でも弱さを抱え、孤独に沈み、涙を流していくものです。
今は健康で強い人間や世の中の成功者や勝ち組だって、いつかは世間から敗北者と呼ばれる日がやってきます。
必ず人間の限界にぶつかって、自分の脆さに直面しなければならないのが私という存在です。
もしもその時に
「強い人間だけが救われる」
「賢く立派な人間だけが価値がある」
といった言葉しかなかったらどうでしょうか。
その時点で私が立っていられる居場所、生きていく道は失われます。
阿弥陀如来という仏さまは、優劣をつけたり点数で評価していのちに価値をつけません。
「良い私」も「悪い私」も、
「強い私」も「弱い私」も、
「賢い私」も「愚かな私」も
分け隔てなく平等です。
その仏さまの心に触れるときに、私の生きていく道が与えられるのが浄土真宗という仏道です。