衣の供養

お釈迦さまの弟子であるアーナンダ(阿難尊者|あなんそんじゃ)が、ウダヤナ王の后であるシャマヴァティーから500着の衣を供養(布施)されました。
アーナンダはこれを快く受け入れたのですが、ウダヤナ王がそこには欲や貪りの心があったのではないかと疑って訪ねます。

「尊者よ、貴方は500着の衣をもらってどうするんですか?」


「はい、王様。お釈迦さまの弟子の多くは破れた衣を着ているので、彼らに分けてあげるつもりです」

「じゃあその者たちが着ていた破れた衣はどうするんですか?」


「敷布(しきふ|敷き布団のうえに敷く布)を作ります」

「古い敷布はどうするんですか?」


「枕の袋にします」

「古い枕の袋は?」


「床の敷物に使います」

「古い敷物は?」


「足ふきを作ります」

「古い足ふきは?」


「雑巾にします」

「古い雑巾は?」


「細かく切って泥に混ぜ、家を作るときの壁の材料にします」


この説話は、ものを大切にしましょうということはもちろん、「諸法無我」という仏教の要を教えます。


私たちは「衣」といえば、単純に着るものを想像します。しかし、「1枚の布」と考えればさまざまな変化を見せます。
古くなって破れた衣は、敷布・枕の袋・敷物・足ふき・雑巾……そして最後は泥といっしょに混ぜられ、家の壁の材料となるのです。


このように1枚の布は、はたらきや役割を変えてどこまでも生かされます。
姿は変えながらも生き続けているということです。


私たちは、ひとつの固定したものの見方に執着します。更に言えば、とらわれていることに気が付かないことがほとんどです。

「衣」といえば、着るもの・身体を覆うものを連想します。それ以外のことが思いつかないのは、先入観や固定観念にとらわれているためです。

「衣」とは、ある用途の布を仮に名づけたもので、「衣」という絶対的な存在があるわけではありません。固定的な実体を持たない1枚の布です。
もうひとつ踏み込めば、「布」もまた「繊維」の集合体でしかないことを忘れてはいけません。


本来は1枚の「布」であって「繊維の集合体」でしかないように思いますが、ひとたび別の名前で呼ぶと、そこにとらわれが起こります。


同じように「私」という存在も、姿を変え続けていきます。人間はつい自分自身を絶対的なものと見てしまいますが、本来はそうではありません。
「私でないもの」が「私」となり、再び「私でない」ものへと変わっていくのです。
私が大切にしている私も、「私」という固定的実体は存在しないのにとらわれてしまっています。


執着は、気づかない形で私たちのいのちを蝕んでいます。
すべての存在は固定的な実体を持たないからこそ、ひとつの見方にとらわれないことを教える説話です。

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2017年09月17日