今から100年ほど前に橋本峨山という禅僧が講演会でこんなお話をされていたそうです。
「あなたのお母さんと奥さんが大きな池で溺れています。どちらを先に助けますか?」
聴講していたのは、いろいろな分野で活躍する先生たち。当時は、まだまだ儒教の精神が強く残っていた時代だったため、こんな意見が最初にあがりました。
「儒教の教えでは、親を大切にするのが最も尊いことと考えられています。ですから、奥さんよりも母親を先に助けるべきです」
すると他の先生がまた別の意見を出します。
「儒教の教えはそうかも知れませんが、キリスト教の影響を受けた西洋の思想は違います。神はこの世にアダムとイブの夫婦を創造されました。つまり、夫婦の絆こそが最も重んじられるべきですから、奥さんを先に助けるべきです」
「いや、それは奥さんにもよるでしょう」
いろいろな意見が交わされましたが、なかなか結論は出ません。
「早く決めないと、両者とも溺れてしまいますよ」
講師が催促したところで、参加者から声があがります。
「じゃあ橋本和尚はどちらを先に助けるんですか?」
橋本和尚へ注目が集まります。
「私は仏さまに仕える身なので、仏さまの立場でものを見るように努めています」
「仏さまの見方ですと、どちらを先に助けることになるのですか?」
「近くにいる者から助けます」
仏さまのものの見方は私たちとは異なります、
「お母さんだから先に助けよう」「奥さんだから先に助けよう」といった「お母さん」「奥さん」のレッテルを貼って優先順位を決めません。
だからこそ、橋本和尚は「誰であっても近くにいる人から先に助ける」と答えたのでしょう。
しかし、仏さまといってもさまざまです。阿弥陀如来はレッテルを貼らないうえでどのように救うのでしょうか。
『歎異抄(たんにしょう)』には、
【原文】
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
【現代語訳】
阿弥陀仏の本願(衆生救済の根本の願い)は老いも若き善人も悪人も分け隔てなさいません。ただ、その本願を聞きひらく信心がかなめであると心得なければなりません。なぜなら、深く重い罪を持ち、激しい煩悩を抱えて生きるものを救おうとして発された願いだからです。
とあります。
阿弥陀如来は老少とか善悪といったレッテルを貼らずに分け隔てがないからこそ、罪や煩悩によって苦悩するものに向いています。
つまり、近くの人から……というよりは、もがき苦しみ今にも沈もうとする人から救うのです。溺れていても、まだ余力が残っている人は後回し。
ここが他の仏さまと阿弥陀さまの救いの違いではないでしょうか。