科学と仏

仏さまや浄土という話を聞いていると、

「そんな科学的でない話は現代では受け入れられない」

と感じることはないでしょうか。私も長い間、そのように考えて生きてきました。しかし、よくよく思い返してみて、私が科学で生きてきたかというとそんなことはないのかも知れません。深川倫雄師という勧学和上(かんがくわじょう・最高学位の尊称)が、こんなお話をされていたと聞きます。

地球と太陽の関係について、「地動説」と「天動説」という考え方があります。地球が回っているのか、太陽が回っているのか。

「地動説」が主流であることは皆さんもご存知の通りです。ちなみに文部科学省の学習指導要領によると、中学理科第2分野で「地動説」を教えることになっているそうです。

しかし、生活を振り返ってみると、地球が自転をして太陽が真上に見える位置にきた…という言葉遣いはあまり聞きません。むしろ、「日の出」「日の入り」とか「太陽が沈んだというのが通例になっているのではないでしょうか。地面が動く「地動説」ではなく太陽が動く「天動説」を優先して生活しているということです。学校で学んだ理論的・科学的な知識が私たちの生活の中心ではないようです。

冷静に考えてみれば、地震が起きて地面が少し揺れただけでも私たちはパニックになります。どちらかといえば、地面は動かずにドッシリと私たちを支えてくれているものだと受け止めた方が、安心しますし落ち着きます。

ということは、人間は「このように習った」「このように科学的な実証がなされた」という知識や理解を中心に生きているのではなく、「こう思いたい」「安心する」「落ち着く」といった心や感情を中心に生きているのでしょう。

仏さまや浄土という話は、確かに科学的な話ではないのかも知れません。
ですが、人間は生まれた以上、誰もが年を重ねていくなかで寂しさを感じ、病に冒されて辛さに苛まれ、身近な方と別れて悲しさを抱え、いのち終えていくなかで恐怖していきます。
また、日々の生活の中で将来のことに不安に襲われ、人間関係のなかで孤独や憤りを覚えることもあります。
このように理屈ではどうすることもできない、心の奥底や感情の深いところにある自分ではどうすることもできない悲しさや孤独には、科学的な知識や論理が何か答えを出してくれるのかいうと難しいのではないでしょうか。

そういった私たちの心に寄り添い、いのちの根底から支えてくださる仏さまがいらっしゃる。その仏さまと参らせていただく浄土がある……という話は、科学では解明できませんが、心や情を中心に生きる私自身には尊く響くものがあるように感じます。

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2017年02月12日