自分の姿

浄土真宗は「仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)を聞く」ことを肝要とします。
簡単にいえば仏さまが私に対して何をしてくださったのか、どうおっしゃったのか、どのようにご覧になったのかを聞き受けるということです。


「仏さまが」を中心にしているため、自分で自分を分析することや自分で自分に気付くといったことを浄土真宗では重要視しません。
なぜなら、私が見た私の姿や、私が知っている私の姿はまったくアテにならないからです。


知覚心理学の学術誌である『i-Perception』に次のような論文が掲載されていました。
自分と他人の顔の記憶について調べた実験です。


用意するのは被験者の顔写真です。画像編集ソフトによって、目や口の大きさを加工。
元の写真と目の大きさを5%・10%・15%ほど大きくしたり小さくしたりした写真を合計7枚用意します。
その写真からランダムで選んだ4枚のうち、本人に「自分らしい写真」を選んでもらうとどうなるのか。
さらに、本人をよく知る友人にも「あの人らしい写真」を選んでもらいました。


結果、友人たちが選んだのは加工していない元の写真。人は他人の顔を判断するときに正しく選択できるようです。


一方で本人はというと、目の大きさを5%大きく加工した写真を選んでしまうことがあったといいます。
つまり、自分自身の目を実際のサイズより大きいと思い込んでしまっていたのです。


さらに、口のサイズを変更した写真を用いた同様の実験も行いました。


すると同じように友人たちは加工していない写真を選ぶことができたといいます。


対して、本人が選んだのは口が小さく加工された写真。
しかも、実験を重ねるうちに、この現象が男女に関係なく起こることが判明しました。


一般的に、魅力的な顔の特徴といえば「目が大きい」「口が小さい」が挙げられます。
このことから推察するに、私たちは男女を問わず、自分の顔は実際よりも魅力的であると錯覚しているようです。


そのため、加工していない写真を見ると「写真映りが悪い」「こんな感じじゃないのに」と違和感を覚えます。


なぜなら、自分はもっとかっこいいはず、かわいいはず、美しいはずと勘違いしているからです。
もちろん、これは人間であれば誰もが持っている特性です。


似たような話で、録音した自分の声を聞くと「変な声」「気持ち悪い」と思う人は多いでしょう。
それは上記の実験と同じように「自分の声はもっといいはず」と間違った認識を持っているためです。
「自分の声は骨伝導で聞こえているから別物である」と考えられますが、そうであれば骨伝導がなくなった録音した声を「良い声」と思う人がもっといてもいいはず。
にも関わらず、自分の声を外から聞くと嫌悪感を抱くのは、いつでも自分を美化してしまうからです。

人は誰しもが実物より「もっとかっこいい」「もっと優れている」と歪めた自己像を持っています。


以上のように、人間は自分自身を正しく見ることができません。
そのため、浄土真宗では「自分で自分の煩悩や罪業性に気づくこと」とか、「自分から見た自分の姿」といったことをアテにすることがないのです。


だからこそ、仏さまが私に対して何をしてくださったのか、どうおっしゃったのか、どのようにご覧になったのかを聞き受けることを浄土真宗では大切にします。
さらに言えば、仏さまの心に尋ねていくところにそうしたアテにならない自分の姿を如実に知らされるのでしょう。

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2017年12月17日